2015年11月23日

新嘗祭に寄せて〜屯田兵達が禁じられた、米づくりへの熱い思い〜

みなさま、ごきげんうるわしゅう。

本日は11月23日、おめでたい新嘗祭の日です。
新嘗祭は「にいなめさい」とも「しんじょうさい」とも読みます。

新嘗祭は、五穀(五穀の中身は時代により少しずつ変わりますが
主に米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指しています)の
新穀の収穫を天皇陛下が神様へ感謝されるお祭りです。
飛鳥時代は皇極天皇の御代に始まったお祭りだと言われています。

今年も、ピカピカの美味しい新米や穀類がとれたことを
神様に感謝し、また農家の方々にもお礼の気持ちを捧げて、
今日という日を皆様と無事に迎えられたありがたさを
しみじみと感じながら過ごしたいと思います(人)

そして本日は、そんな新嘗祭の日にふさわしいお話をご紹介します。
これは、私がずーっと皆様に読んでいただきたいと思っていたお話で、
今日この日にアップすることを個人的にとても楽しみにしていました。

今でこそ、北海道は日本有数の米作地帯として名を馳せるようになり、
また旭川市は「ゆめぴりか」「ななつぼし」「おぼろづき」など
高品質のブランド米を育てて全国に出荷していますが、
かつて屯田兵が旭川に入植した頃は「旭川では米を作るな」という
禁止令が出されていました。そのことをご存知でしたでしょうか。

稲作禁止令が出された経緯と、当時の屯田兵人達がとった行動、
変えてきたものを皆様にぜひ知っていただきたく、ご紹介しようと思います。
それではここから「旭川の屯田兵の稲作物語」、はじまり、はじまり〜。


本日の書籍
『旭川屯田100年史』
 編集 旭川屯田会
     100年史編集委員会
 出版 須田出版


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p100〜101
「米作不適論」
   高垣 仙蔵

北海道開拓の雇人でアメリカ人のトーマス=アンチセルは、
明治4年(1871)に石狩地方を調査して、資料を分析した結果、
北海道で米作をするということは不可能であるという結論を出した。

彼は石狩平野の地勢と、土質・草木の種類農作物などを調査し、
さらに住民の話にもとづいて、風・積雪・寒さなどを観察し、
当時の函館における気温などを比較して、
「ここに稲田を作ろうとすることは最もおろかなことである。
毎年北海道にあって、山間の湿地などを耕して
稲を作る者があるけれども、その稲が小さくて実りが少ないのは、
灌漑に用いる河川が寒冷であるから
穂を出すことができないのである。」

と報告している。

この報告にもとづいて開拓使顧問である、ホーレス=ケプロンは
これほど明瞭には否定していないが、夏期の気温が十分でなく、
トウモロコシの成熟が困難であるのを見れば、米作は不可能であると
考えなければならない。亦米作は広い耕地が必要であり、
資金経費も多く、栄養は他の食用穀物よりも劣っていることを主張した。

すなわち北海道は米飯をやめて麦・泡・黍を以てパンを製し、
食用とすることが指導者の着目する所であると説明された。
かくてケプロンは北海道移民の主食物を変更しなければならないと
進言した。

また北海道農業技術の指導者養成所として設けられた、
札幌農学校の教頭であるクラークも、米作に関しては
明確な意見は述べていないが、原野を拓いて畜産を入れ、
輸入農業によって日本農業を改革しようとする理想を持っていた。

更に明治19年内務大臣の命により、北海道を視察したドイツ人農学者
マックス=フエスカもまた、北海道では米作が経済上不利であり、
米は耕作すべきでないと説いた。

尚彼らは温度測定の上からも、正しい認識と信念を以て、
米作不適当なりと断言していた、元来水稲は5月から10月に至る
6ヶ月の間の平均温度が3,000度以上に昇らなければ、
不適地であるという学説は動かすことができないということである。
1ヶ月、少なくとも500度とすれば1日平均16度5分以上の温度がなければ
駄目であると言われたのが論拠である。

かくて北海道庁は氷はりつめて寒い北海の土地であるから、
不可能といわれる米作を抑制して麦作を奨励し、
一般には漁業に専念していくことを
北方開拓の指針として各庁に達示したものである。

北海道は米作不適論で指導されている中に、
明治25年8月旭川兵村に屯田兵が入地した。
北海道庁はもちろん、屯田兵本部も稲作は禁止であった。
この禁止については規則や庁令で出たのではなくて、
各庁内の命令であり、各屯田中隊長の命令であった。
北海道で米は穫れるものではない。
水田にならないのだから水田を作ってはいけない。
北海道で米を食うつもりで来たのなら間違っている。

しかし内地の米どころから来た屯田兵は、
みんな水田を作ろうとした。

明治28年かくれて、水溜まりを利用して種籾を撒いた。
当麻の屯田兵は、見廻りに来た福井大尉中隊長に見つけられ、
「水田を作ることは禁止だぞ。こんなことをする暇があったら
畑を開墾せよ」とどなられた。
この旭川兵村でも、水の溜まる所で稲を作って
第3中隊長にしかられたり、
第4中隊でも稲作禁止の命令をきかないというので、
営倉※に入れられた屯田兵の木村百次郎がある。
山田少尉は北海道中部の上川地方は日照時間がないから
水田を作るのはやめろという。
「米はつくるな」ということは屯田兵中隊本部の指導方針であった。

 ※営倉:旧軍隊で、規則に違反した兵を閉じ込める建物。
   また、そこに閉じ込められる罰(ブログ主 注)

畑作中心の農業をすすめたことは、水田理論に暗かった

外国人の意見としては当然といえる。そして理論としては
承認せざるを得なかったのである。
かかる意見は相当重要に作用した。
各庁内の指導は容易に米作奨励に転換しなかった。

明治28年10月27日旭川兵村の屯田兵
入山知故・高見正吉・木村百次郎3氏は、
忠別市街(現旭川)旭川(現東旭川)間の

道路改修工事請願、並に水田灌漑工事に対する
補助金申請の運動をもって、札幌の北海道庁へ出張した。

同調の土木課や殖産課を訪れて、少しでも補助金を得ようとして、
試作した水稲の立毛そのままを、株ながら抜きとり
かんそうした実物や、玄米白米をもっていくら説明嘆願しても、
拓殖部長や土木部長には遂に許諾せられなかった。

元来、水稲は不適地であるという学説は動かすことはできない。
湿地乾燥のため、低地に排水溝を掘る費用ならば詮議できるが、
高い所に引水して水田灌漑を目的とする工事費用の補助金支出は、
出しようがないとはねつけられて何としても許可にならない。

北海道内に於いて美唄屯田の隊長は、北海道には、
水田は絶対できないのだから、水田の計画は絶対にやるなと
厳命を下していた。
また江別屯田の吉原氏は曰く、
中隊本部にて厳命する上官の命に服せず、

水田を作って営倉に入れられたというのも事実であった。


p77〜78
「屯田古老座談会」より

高垣仙蔵氏

屯田入植の皆さんは、穀類、野菜よりも、米を作り、
食べたいとの願望が強かったようです。
(中略)
屯田入植者は、米作りの希望は捨てきれず
屯田家族の名前で隠れて試作する人が多く、
中隊記録を見ると、26年には黙認の形で僅かですが、
米が収穫されています。そして、27年には
上兵村の人は協力して倉沼川から大通5丁目まで用水路を掘り、
水稲栽培に入ったようです。

p81
三橋薫氏

昭和11年に天皇陛下に献上する天覧米を作った事を思い出しますが、
耕作を拝命してから、収穫まで、それはそれは厳しいものでした。
家族の健康診断から、種植、除草等それぞれに支庁、役場、
農会、警察等の立会、指導を受けながら、無事、上納させていただき、
本当に光栄なことだったのですが、大変な一年でした。
東旭川のお米が撰ばれたと言うことは、その当時から米作地として、
高く評価されていたのですね。

三上善三郎氏

私の記憶では、大正4年の大正天皇即位の大嘗祭にも
南4丁目の佐竹竹太郎さんと、井原彦太郎さんが、
献穀米耕作の使命を受け、その光栄に報いたと聞いておりますので、
その頃から、東旭川の米造りは、全国的に高い評価を受けていたのは
事実のようですね。

鈴木ツルヱ氏

私は昭和2年に嫁ぎましたが、その頃田圃に入ると、まだ、
木の根株があり、また腰まで抜かり、さらに、どこまでもぬかるというような
深い田圃でした、その後、客土をして現在の立派な水田になったのですが、
大変な苦労でした。

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以前こちらの記事でも書きましたとおり、
北海道開拓は、あまりにも厳しすぎる難事業でした。

開拓を実現するために、江戸時代末期から
ずいぶん大勢の人や金が投入されてきましたが、
北海道の厳しい環境にはなかなか適応できず
入植した人々は次々と命を落としていきました。

この北の大地で、人間とり生きていくというだけでも
並大抵のことではありませんでしたが、その中でさらに
大木が生い茂り大きな石の埋まった土地を開墾し、
そこに田や畑や道や町をつくり、
また全国各地から集まった風習も方言も違う人達同士で
協力し合うことが求められていたのです。

そんな苛酷な大事業であった北海道開拓が成し遂げられたのは、
ひとえに、根性と知恵と志のある屯田兵達が先頭に立ち、
また開拓民も「決してあきらめずに生き抜く」という覚悟をもって
一丸となって取り組んでいたからだと思います。

この地で、自分達は生きていく。
「つらいから」と言って、逃げ帰れる場所はない。
この地に根を張ることしか、生きるための術はない。

自分達にそう言い聞かせながら、屯田兵や開拓民は
血のにじむ努力を積み重ねてきたのだと想像しています。


ところで私の祖先は、富山県や山形県に住んでいた農民でした。
そして祖父や祖母に何度もしつこく訊ねて、ようやく聞き出したのは
北海道に入った私の祖先(祖父母の父母の代)は、どうやら
「土地が広くて豊かな北海道に移住して、自分の田や畑を持とう」
的な、割と気楽で夢のある感じ(笑)で移住を決めたということでした。

北海道がこんなに厳しい環境であることを事前に知っていたら、
果たして移住していたのだろうか、深く疑問に思います。

それでも、生まれ故郷に自分の土地を持つことが出来なくて、
「それならば新天地で自分の土地を持ちたい、
自分が働いた分だけしっかり収穫して暮らしたい」
という夢を抱いて
やってきた屯田兵や開拓民は
きっと大勢いただろうと考えます。


その人達が、いざ北海道に到着して開墾を始めたら
「米は作るな!命令に従って畑を作って、とれた作物を食え」
と言われたら、それは怒って反抗して当然だったと思うのです。

日本人の主食は米です。

誰に遠慮することなく、自分で開墾した土地で米を作って
お腹いっぱい米を食べたい。
そして、米どころから来ている農家なのだから
自分は米の作り方だってちゃんと知っている。
それなのに「米は北海道では作るな、あきらめろ」と言われても
諦めきれるわけがないでしょう。
いくら規則だから従えと言われようが、
一番作りたい米も作らせてもらえない北海道開拓なんて、
あんまりにも、夢も張り合いもなさすぎます。

だからこそ、営倉に閉じ込められようが、
上官から何度も怒鳴られたり禁止されたりしようが
旭川の先人達はしぶとく米を作り続けたのでしょう。
自分の土地で米を収穫して食べたい、その一心で。

そんな人々の熱意の積み重ねがついに認められて、
旭川は、天皇陛下に天覧米を献上するところまでこぎつけました。

私は、この「旭川屯田100年史」でこの米作りの闘いの歴史を知って
先人の皆様に対して、本当にありがたいと思いました。
この人達が、自分達の夢を絶対に諦めずに米を作り続けてくれたから
今、北海道は米の一大産地として全国で認められるようになり
私達も、地元産の美味しいご飯を毎日いただくことができているのです。
これがフロンティア・スピリット、北海道で言うところの
開拓者魂でなくしてなんといいましょうか。
米作り農家万歳\(^o^)/と思いますし、
また、自分の実人生の中で生まれた夢に対して
「無理だ、できない、あきらめろ」と言われることがあったとしても
「これしきの反対を受けたぐらいでは決してあきらめない!
私は、米作りを決行し続けて夢を叶えた開拓民の子孫だもの(`・ω・´)」
と思って、乗り越えていこうと思うのでした。

さて、最後になりますが、
新嘗祭といえば、個人的にはこんな思い出があります。

数年前、とある方とご縁をいただいて、靖国神社で
つきたてのお餅を神社の参拝客に配るお手伝いを
させてもらったことがありました。
あのお餅は確か、無料でお配りしていたと思います。

その日は残念ながら、あまりお天気が良くありませんでしたが
新嘗祭ということもあり、思いのほか多くの方が参拝に訪れていました。
そして「新嘗祭ですので、無料でお餅をお配りしています〜」
という私達呼び子の声を聞いて、老若男女が嬉しそうに寄ってこられて
美味しそうにお餅を頬張っておられました。

新嘗祭というハレの日に、先人達を大切に思う心を持つ方々へ
つきたてのお餅を配らせてもらうというお手伝いができて
なんだか誇らしい気持ちになりましたし、
靖国神社で、多くの人が収穫の喜びをともに味わっている様子は
英霊の皆様にもお喜びいただけたのではないかな、と感じています。
それは思い出に残る、よい1日でした。

皆様もどうぞ、おいしい五穀をいただいて、よい1日をお過ごしください。


posted by はなうた at 00:00| Comment(0) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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