2014年09月19日

英霊の皆様のご褒美\(^o^)/〜北鎮記念館のヘリ体験試乗に当選したヨ♪の巻〜

去る8月15日、終戦の日に
旭川で護国オフ会をいたしました\(^o^)/

その際、オフ会参加者の皆様を
我らが北鎮記念館にお連れしまして^^

自衛官の方にガイドを1時間お願いして
館内の展示物を解説していただき
(無料でお願いできるのです。勉強になりますよ!)
素晴らしいひと時を過ごした我々でしたが…(*´▽`*)

そのときに開催されていた「旭川の歴史クイズ」に、
私と参加者のお一人(以下、お嬢(笑))が
試しに答えてみたのです。
「回答者の中から抽選で、ヘリの体験試乗が当たります!」
とのうたい文句に吸い寄せられた私達!

「きゃ〜、当たるといいですね〜(≧▽≦)」
なんて言いながら
回答用紙をポストにインした、あのとき…

奇跡が起きました\(^o^)/
ヘリ試乗に当たったのです♪

DSC_0123_R.JPG

搭乗日のお昼頃、北鎮記念館に集合。
数十分の説明を受けてから、
五組(一組10人ぐらい?)に分かれて搭乗しました。

出発地は、陸上自衛隊旭川駐屯地内です。

ちなみにヘリ試乗体験は、1年に1回行われるそうで
当たる確率はだいたい、1/2以下とのことでした!

私はこれまで、北鎮記念館関連の似たようなクイズに
応募しては外れていたのですが、
今回は当たりましたね〜。嬉しかったです。

しかも、一緒にクイズに答えたお嬢も当選!
しかもしかも、同じ組のフライトに振り分けられて!
ね、奇跡でしょう?^O^

ということで、同じく当選されたラッキーな方々と共に
ヘリ搭乗を待っている光景であります。

DSC_0122_R.JPG

当日は曇り空でしたが、フライトは無事に決行されました。
なお、悪天候の場合には翌日に延期になるところでしたが
皆様の日ごろの行いに助けられて、大丈夫でしたよ^^

ヘリの中からの風景。

DSC_0125_R.JPG

この時点で、既に離陸しています^^

事前に北鎮記念館の方が
説明してくださったとおり、
ヘリは、騒音はすごかったですが
体感的にはふわっとしていました。

ガクガクと揺れたりすることもなく、
意外なほど軽やかな乗り心地。

操縦してくださる方の後ろ姿。右の人。

DSC_0127_R.JPG

同じく、操縦してくださる方の後ろ姿。右の人。

DSC_0129_R.JPG

お二人の役割の違いなどを質問しませんでした、
というか、この時点でかなり興奮していて
記憶がとびとびになっておりますwww

とりあえず、信頼の陸自操縦士の方の操縦なので
大船に乗った気持ちでおまかせできます!

そして、町中を飛んではる〜〜〜〜!の図。

DSC_0133_R.JPG

私の生まれた町よ。私の暮らす町よ。
私のいとおしい大地よ…(*´ω`*)

DSC_0138_R.JPG

などなどと、一人感動の世界に
没頭し続けたかったのですが、
私の隣に座ったおじさんが大変人懐っこい方で
たびたび私のことをつついては、

「あれ!見てみて!●●神社だね!」
「旭山動物園だよ!」

と話しかけてくるので、落ち着かなかった(笑)
ヘリの中だと声も聞こえづらいし、
悪気のないおじさんを無碍にもできないけれど、
ぶっちゃけ、私はおじさんに集中するよりも
眼下の景色と飛行に集中したいんです(笑)(笑)
お願い、もう私をそっとしておいて(人)(爆)

と心の中で思いながら、
なめらかに移り行く眼下の景色を眺めていました。

フライトは15分間。

いつの間にか、田んぼの上も飛んでいます。

DSC_0134_R.JPG

旭川は米どころなんですよ〜。
「ななつぼし」「おぼろづき」
「ゆめぴりか」「あや」なんかが美味しいです。
お米だけでなく、お水も美味しいので
旭川に来たら、ぜひぜひ
ご飯をたくさん食べてください\(^o^)/

そしてヘリは、再び町中へ。

DSC_0137_R.JPG

この日のヘリは、
地上250mを飛んでいたそうです。
それぐらいの高さでは、人の姿は見えないけれど
車や電車や建物は確認できます。

それ以上の高度になると、
雲の中に突入してしまうので
景色は見られないのだそうです。

DSC_0139_R.JPG

奥の方に見える緑のかたまりが、常磐公園。
そのさらに奥にあるのが、牛朱別(うしゅべつ)川です。

私の尊敬する、旭川市出身の軍神・加藤建夫さん
かつて凱旋飛行で旭川に戻っていらしたときに
同じように、旭川の町を見下ろしたのだろうな…

目に映る景色は違えども、私と加藤さんは
同じ旭川を空から見たんだ…

職業軍人であり、並外れた覚悟を持った加藤さんは
当時、どんな思いで故郷を眺めたのだろう。
もう二度と生きては帰ってこられないかも、と
思ったのかもしれない。
それでも、この眺めを護るために
精一杯のことをしよう、と思われたのではないかな。

加藤さん。加藤さんのお気持ち、少し分かる気がします。
私も、私の町がいとおしいです。大事です。

時代も性別も立場も違うけど、
思いは共有できる気がします。
私は私なりのやり方で、
この町をきっと護っていきます、加藤さん…
どうか護国のために、これからも
私達にお力添えをください…


などと、たびたび隣のおじさんに
唐突に話しかけられながらも(汗)
祈るような気持ちで町を眺めていたのでした。

そして、およそ15分のフライトを経て、
出発地点に戻ってきました^^

DSC_0143_R.JPG

離陸の時と同じく、着陸の時も手を振ってくださいます。
お世話してくださった北鎮記念館の方々は
お話上手で明るくて、優しい雰囲気の方々ばかりでした。

とても素晴らしいフライトで、
故郷・旭川への思いがますます強くなりました。
お嬢もとても感激していて
「すごかったですね!大興奮でした!」と盛り上がっていて、
可愛かったです*^^*(お嬢はいつも可愛い♪)

こんな大きな幸運に恵まれたのはきっと、
終戦の日に旭川で護国オフ会をして、
「日本を護りたいね〜」とみんなでお話をして、
北鎮記念館でみんなで勉強して、
護国神社にみんなで参拝して…

あとは美味しいものを食べて、
真央ちゃんのすばらしさをウットリと褒めたたえて、
日本に生まれて本当に良かったね〜と喜び合い…

私達のそういう姿を、きっと
神様、仏様、ご先祖様、英霊の皆様が
見ていてくださっただと思うのです。
それで、「めんこい子達だなあ」と思ってくれて
ヘリ搭乗を当ててくださったのでは!と。

だって、お膳立てが整いすぎてますもんwww
英霊の皆様の見えざる手の動きを
感じざるをえませんもんwww

だがしかし、こういうことで調子に乗ったりせずに、
引き続き地道な護国活動を頑張ろう(`・ω・´)!
と決意を新たにしたのでした。

神様、仏様、ご先祖様、英霊の皆様、
北鎮記念館の皆様、どうもありがとう!!


余談ですが、北鎮記念館では、今回のような
ヘリ搭乗が当たるクイズを年1回開催するほか、
旭川の歴史を分かりやすく、的確に掘り下げた
子供から大人まで勉強になる展示
第二音楽隊による素晴らしいミニコンサートなど、
年中、良質の企画を打ち出しています。

そして今度の月末にも、
第二音楽隊を招いた素敵なミニコンサートが
あるんですのよ〜奥様♪

260826.jpg

9月27日(土) 14:00〜15:00
場所 北鎮記念館1Fイベントホール
入場料 無料!

今回は、第二音楽隊の楽器演奏に加えて
大人気の北鎮太鼓の演奏も聞けるんです!!

どうです、ももあるとさん!!
はるさんも!!
(名指しかよwすみませんw)

これは、ほんと〜に素晴らしいですよ!

北鎮記念館の音楽コンサートは、
無料でありながら、いつも必ずレベルの高い、
しかも温かみのある音楽が楽しめて
とても素敵なのです!全国に自慢したいほどに♪

音楽コンサートのことは
私も過去に何回か記事にして取り上げていますが
最近は、手ぬぐい等のことでバタバタしていて
なかなか行く時間がとれませんでした^^;

でも、27日は!私はたぶん行く!と思います!

そして、太鼓演奏は毎回あるわけではないので、
北鎮太鼓がセットになっている今回のコンサートは
特にオススメですよ〜( *´艸`)

旭川市内と旭川近隣にお住いの皆様に、
私の大好きな北鎮記念館のことを
好きになっていただきたい、
いろんな種類の感動を得て、
皆様の時間をますます豊かにしていただけたら…

と思います!

北鎮記念館のHPはこちら↓
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/hokutin2/top.html


posted by はなうた at 23:38| Comment(8) | TrackBack(0) | 北鎮記念館(第2師団) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月31日

第2音楽隊のアンサンブルコンサート@北鎮記念館(2014年1月19日)

気がつけばもう、2か月も前の話に
なってしまいましたが…(;゚Д゚)アワアワ

年度末を締めくくるにふさわしい、
明るく素敵なテーマでお送りします♪

北鎮記念館の音楽イベントの様子を
ちょっとだけお伝えします。
去る1月19日に、
自衛隊ラッパによる演奏、という
珍しい演目と、金管楽器の
魅力的な四重奏がお披露目されました。



↑こちらの動画では、ラッパ演奏の方が
ご挨拶をされるときの敬礼と
ラッパを扱う所作がかっこいい
のですぴかぴか(新しい)

実用性の高い様式美というのでしょうか。
きびきびしていて無駄がなく、
「さすが自衛隊!」って感じです(*´▽`*)

またラッパは、自衛隊では「楽器」ではなく
「通信手段」と認識されている
…というお話など、
ためになる解説も収録されています。



↑こちらの動画は、収録時間は短いのですが、
ラッパのマークの正露丸のCM
使われている音楽についての解説です。
あれは旧軍の「飯ラッパ」だったんだよ〜、
というお話ですね*^^*



↑このときの金管四重奏は本当に素敵でした!
きらびやかで、上品で、もちろんすごく上手くて!

この後にもたくさん、いい曲、おなじみの曲が
演奏されたのですが、ちょうどいいところで
私のスマホに「高温になり録画できません」
と絶命宣言が表示され(!)
結局、最初の曲の途中までしか
撮ることができませんでした。

もったいなかったなぁ…

誰かがこのときの演奏の完全版を
アップしてくれたらいいのになぁ…*^^*
私の手ブレ動画なんかではなくて(笑)
本当に素晴らしかったのです。

最近自分は、いろいろバタバタしておりまして
記念館にもアンサンブルコンサートにも
なかなか行けないのですが、
また行ける機会があったら、
なるべく手ブレしないように(`・ω・´)
かつ全演奏を撮りきれるように努力して
アップしたいと思います♪

それでは、明日から新年度です^^
気持ちを新たにしてがんばりましょう\(^o^)/

posted by はなうた at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 北鎮記念館(第2師団) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月29日

封印されてきた旭川の町づくりの歴史〜北鎮記念館の展示を見て〜(3)

封印されてきた旭川の町づくりの歴史〜北鎮記念館の展示を見て〜(2)
の続き、今回で完結です(長かった…^^;)

旭川の歴史を語る上で、
欠かせない存在、それは「屯田兵」です。

屯田兵、という字面を見ると

  土地を開拓し田畑を耕し、
  兵隊の役割もした


というイメージは何となくわいてきますが、
なぜ北海道に屯田兵が置かれたのか、
具体的にどんな仕事をしていたのか、
そして兵隊として、どこと闘うことを
想定していたのか…

北海道民でも意外と知らないものです(汗)

ということで、今回は屯田兵の展示に
スポットを当ててみます♪

DSC_0351_R.jpg

北鎮記念館「旭川の歴史展」の展示では…

明治の初めごろの状況と屯田兵の始まりについて
次のように解説されていました。

1.ロシアがらみの心配ごと
・樺太は、ロシアとの国境が未確定で
 紛争が絶えない
・常に南進を狙っているロシアの脅威がある

2.大政奉還・廃藩置県により生じた問題
・職を失った武士に新しい仕事を紹介したい
(幕府側についていた東北諸藩の人々や
旧松前藩の人々の不満が募っていた)

3.北海道を護るための警備が重要!
・ロシア等の脅威から開拓民を護らねばならない
・道内では渡島地方(函館方面)の漁民が
 「税金が高い」と蜂起していて、情勢が不安定
・師団を置くとなると、資金が足りない(´・ω・`)
           
千島樺太交換条約(明治3年締結)により
樺太への心配は以前より緩和されたとはいえ
北海道は何かと心配が多い(-。-)=3
           
そうだ!屯田兵を置こう!\(^o^)/
・当面の脅威を緩和できる
・職を失った武士たちに仕事をあてがえる
・警備と開拓を並行して進められる
・半農半兵の屯田兵なら
 師団に比べてお金もかからない

いいことばかりじゃないか!ということで
屯田兵が置かれることになりました。

ちなみに、あの坂本龍馬
大政奉還で職を失った武士達をやはり心配し、
北海道での屯田制を提唱していたそうです。
そればかりではなく、自身も
「新しい国づくり」を心に描いて
北海道へ行くことを夢見ていたそうです。

龍馬が亡くなった際に所持していた手帳には
アイヌ語を学んでいたとおぼしき記録が残っていて、
彼が本気で北海道に渡ろうとしていたことが
見て取れたそうです
(龍馬研究家の親類の方から聞いた情報です^^)
彼が暗殺されずに生き残っていたら、
新天地・北海道でまた新しい伝説や名言を
生み出していたでしょうね…(*´ω`*)

ちなみにちなみに、北海道有数のお菓子屋さん・
六花亭でおなじみの花や植物の包装紙は
画家の坂本直行さんが描いたものであり、
直行さんは坂本龍馬と
かなり近い血縁の方だそうです。
坂本家は意外と、北海道とご縁があったのですね〜。

フロンティアスピリット!!\(^o^)/←なんとなく叫んでみたw

そして明治23年、旭川・神居・永山という
三つの村が誕生したのでした。

DSC_0349_R.jpg

旭川の人でないと、ピンと来ないかもしれませんが
当時はこういう風に区分けされていたんですね。

<明治23年>
旭川村:南東は忠別川、北は牛朱別川を境界
神居村:北は石狩川、西は内大成川、
     南は雨紛川、東は美瑛川を境界
永山村:北は石狩川、南は牛朱別川を境界

<明治25年>
神楽村:西は美瑛川、東は忠別川を境界
鷹栖村:神居村、神楽村、旭川村、永山村に
     属さない地方一円

子供でも分かりやすく、きめ細かい展示内容…
北鎮記念館の展示は本当にすばらしいです(∩´∀`)∩

歴史の浅い町・旭川は
見るべきものが特にないと思っていましたが、
こうやって、町が少しずつできていく過程を
年代も場所も明確にして紐解けるのは、逆に、
新しい町の面白さといえるのかもしれません。

ちなみに、旭川の中でも入植が早かった地区は
「曙」と「亀吉」だったそうです。
曙は、その名の通り「旭川発祥の地」といえそうですね^^

そして「亀吉」は(1)でもお話しましたが、
鈴木亀蔵さんが明治10年から入って暮らしていました。

旭川に屯田兵がどっと入植したことで、
町の中のお金のやり取りは一気に盛んになりました。

まず初めに質屋ができ(明治26年ごろ)、
やがて明治30年には、札幌銀行を皮切りに
旭川にも複数の銀行が入ってきたのでした。

DSC_0353_R.jpg

ところで、屯田兵になるには
以下の条件を満たすことが必要でした。


・18〜35歳の体の丈夫な者
・出身地、族籍※、募集人員を示すこと

 ※族籍:旧制度において、戸籍簿に記載された
   華族・士族・平民などの身分


ちなみに当時、軍隊で徴兵を行った際には
「17〜40歳の男子で、20歳になったら
徴兵検査を受けること」という条件だけが
提示されていました。
つまり、比較してみると、屯田兵の条件の方が
軍隊の条件より厳しかったということですね。

屯田兵には、お給料として
「農具や家具、米、移住支度金、塩菜料、
旅費、居宅、埋葬料」
が支給された
そうです。

また、屯田兵には厳しい日課が課されていました。
夏期は起床4時で11時間就業、
冬期は起床5時で9時間就業、

お弁当の支給はありませんでした。
自分達でお弁当を作って持って行って、
朝早くから夜遅くまで、開墾と
兵士としての訓練に励んでいました。

さらに、屯田兵の家族にも
質素・倹約・開墾が命じられました。

将校や下士が朝3時(!)から巡回し、
時には上官が抜き打ちで家に訪れ(!!)
贅沢をしていないかチェックされたのだそうです。
すごいですよねえ…('Д')

DSC_0362_R.jpg

北海道の大地を埋め尽くす大木を伐採して
開墾するのは、並大抵のことではなかったそうです。

夏期は農作業に専念する時期であり、
樹木の伐採は冬期に行われていたそうです。

真冬に大木を伐採して、
運搬もするなんて…
今みたいな便利な機械だって、
自動車だってないのに…


ちょっと考えただけでも、
ぞっとするような重労働です。
少なくとも私には勤まらない…(´・ω・`)
勤め上げる自信も、まったくない…(人)

ご先祖様達の脅威的な働きぶり、
旺盛な生命力には本当に頭が下がります。


そんなご先祖様達の血を引き継いでいる
私達道民には、ものすごい恩恵と、
潜在能力が授けられているんだろうなあ、
ありがたいことだなあ…と
感謝の気持ちが沸いてきます。

自分にどんなことができるか、
ご先祖様から受け継いだものを
どんな風に表現し、形にしていけるのか…
落ち込んだときや迷ったときには、
屯田兵の苦労や偉業を思い出せば
勇気をもらえますね^^

また、屯田兵がどのような家屋で暮らし、
どのような農具や衣服を使っていたかについては
北鎮記念館の常設展で見ることができます。
「旭川の歴史展」は期間限定の展示ですが、
常設展の方をぜひご覧になってください\(^o^)/

とりあえず、このシリーズは
今回でいったんおしまいです。
また新たな展示を見に行ったら
シリーズを再開してお伝えいたします(*^▽^*)


posted by はなうた at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北鎮記念館(第2師団) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月16日

封印されてきた旭川の町づくりの歴史〜北鎮記念館の展示を見て〜(2)

封印されてきた旭川の町づくりの歴史〜北鎮記念館の展示を見て〜(1)
の続きです。

明治18年には、上川地方開発の歴史における
エポック・メイキングなできごとがありました。
その名も「上川の国見(かみかわのくにみ)」です。

当時、司法大輔をしていた岩村通俊
屯田兵本部長をしていた永山武四郎
札幌・創成川を出発し旭川を目指しました。
そして、丸木舟で10日間かけて石狩川をさかのぼり
旭川の近文山の頂上から上川の地を眺めたのでした。

iwamura.jpg

岩村通俊氏
前回の(1)に引き続いて登場^^

Nagayama_Takeshiroh.jpg

永山武四郎氏
小柄ながら、威厳と胆力と温かみのある
魅力的な人柄が伝わってきます。


画像は、現在の近文山からの眺めです。
右側に写っている碑は「上川の国見」を記念して
後に建てられたものです^^

kuniminohi.jpg

なお、「上川の国見」を描いたダイナミックな絵画を
北鎮記念館の常設展で見ることができます^^
北鎮記念館の展示は観覧無料ですし、
頼めば現役自衛官の方が、これまた無料で
ガイドしてくださいますので、ぜひ見に行ってください♪


さて岩村氏と永山氏は、近文山からの眺めから
以下のことに気がつきました。

・上川は、周りが山に囲まれていて
 防衛に適している

北海道の中心に位置していて、
 どこへ行くにも距離が等しい
 
・現時点では未開の地だが、
 道路を作り、開拓民を移住させて
 政治経済の中心地とすれば
 人口は増加するだろう。
 また、上川以外の土地
 (北見、釧路、稚内方面)の開発も
 容易に進むであろう

さらに岩村氏は、上川盆地について
こんな感想も述べていました。

  「石狩岳は比叡山に似、
  流れる川は鴨川の如くして、
  
京都よりも更に規模が大きく、
  素晴らしい。

  ここは後日、我が国の
  北の京となるだろう」


つまり、このとき岩村氏は
「上川は第二の京都になる可能性を
持った土地だ!」
と感じていたのです。
そこで岩村氏は中央政府に対して

  「上川に北京(ほっきょう)を置こう!」

と提案したのですが、政府には
あえなく却下されてしまいます(´・ω・`)

ならば、せめて上川に離宮(皇室の別荘)を…
と提案したのが「上川の国見」のもう一人の立役者、
永山武四郎でした。

明治22年、市内の神楽山にも登った永山氏は
その美しい眺めに感銘を受け、
上川への愛着を表した次の歌を詠んでいます。

  「上川の清き流れに 身をそそぎ 
  神楽の岡に 幸行仰がん」

  「畏みし 神のまします位山 
  民仰ぐべき 御幸をぞまつ」

また永山氏は、こんなことを考えていたそうです。

  「土壌肥沃で資源も豊かであるにも関わらず、
  絶海の孤島の如く嫌って人々が移住せず
  開発がなかなか進まない北海道に、
  北の京を設置し人心を集めるべきである。
  その候補地としては上川(現旭川)が
  最も良いと考える。

  東京が炎熱の季節に
  陛下にはこの地へ行幸され、
  ご健康を保たれ、
  また開拓殖民の事業をご覧になれば、
  人民も感激し天下の民心定まり、
  移住を嫌うこともなくなり
  北海道は近いところとなるであろう。」

しかし、札幌と小樽の反対にあい
この離宮案もまた却下されました。

岩村氏、永山氏はどんなにか
落胆したことでしょう…(´・ω・`)

それでも、彼ら先人たちの上川への思いが
伝わってくる、これらの「北京」「離宮」の
エピソードが、私は大好きなのです(*^▽^*)

後に永山氏は、明治天皇に謁見して
北海道開拓と警護の進捗を奏上しました。
すると永山氏はその成果を認められ、
上川のいち地域に自身の苗字をつけよ、と
明治天皇におおせつかったそうです。

かくして「永山地区」が誕生しました。

また永山氏は、
自分が死んだら、なきがらは
北海道に埋めてくれ、
自分は必ずこの地を守るから…
と言い残したともいわれています。

頼もしいですよね!
かっこいいですよね!!

北海道開拓の歴史を語るうえで、
永山武四郎の存在は欠かせない…
と私は感じています(uへu)

こんな素晴らしい人のことを
旭川の学校教育では
昔も今も全然取り上げていないのです。
もったいないですよね。

学校で取り上げないのなら、
私がとりあえずこの記事で取り上げます。

これから口コミなどで少しずつでも
永山氏の功績が伝わっていって、
いつかちゃんと学校の郷土教育でも
教えてくれるようになれば、と願っています(人)

さて「屯田兵の父」として、生前から
慕われ尊敬された永山氏ですが、
亡き後も永山地区の永山神社や、上川神社で
永山武四郎命(ながやまたけしろうのみこと)
というご祭神としてまつられています。

06011.jpg
永山神社(旭川市)

ちなみに、旭川に北京を置くというのは
現実的に無理があるかなぁ…と思いますが、
離宮ぐらいなら、建ててもいいんじゃないかな?
と私は思うのです。

なぜならば!

旭川は、どこを見渡しても景色が綺麗で、
水も食べ物も美味しく、
夏は湿度も低くて快適です。
冬は極寒の地となりますが、
ウィンタースポーツが楽しめますし
各施設の防寒機能や技術も発達していますから
安心して過ごせます。
また、市内には自衛隊もいてくれて心強い\(^o^)/

さらに、山という自然の要塞に囲まれて
地震などの災害も少ないこの地は
離宮として十分に魅力的な場所ではないかと!!


いかんせん、旭川にはサヨクが多いのが
玉に瑕なんですけどねー( *´艸`)wwww
売国的サヨクを一人でも減らして、
愛国の道民を一人でも増やしていけるように
皆で頑張りましょうねwwwww

そして、離宮の夢が実現したら…個人的には、
私の大好きなユウユウ様こと
秋篠宮悠仁親王にいらしていただければ
大変光栄だと思っています\(^o^)/
日の丸を振ってお迎えに上がりたいぴかぴか(新しい)

幼くしてこの風格ですよ〜

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画像は奈良県・橿原市にある
神武天皇陵を参拝された時の
悠仁親王です。

親王を見守る男性の表情からは
頼もしく誇らしく、嬉しいという思いが
溢れていますね。素敵ですね^^
ユウユウ様や皆様にぜひ、
旭川にいらしていただきたい〜\(^o^)/

旭川市内にある上川神社の境内には、
今でも「離宮予定地」の木札が立っています。
町並みは京都の町づくりにならって
「条」「丁目」で区切られ、
碁盤の目のように整備されています。
「西御料」「嵐山」などの風雅な地名も
いくつか見られます。

岩村氏、永山氏ら開拓の志士が描いた
離宮や都の夢の残り香は、今も市内の
あちこちに漂っているんですね〜(*´ω`*)

私はこれまで、北海道は和人の歴史が浅くて
本州に比べると調べても面白みが少ない…
と思い込んでいました。

けれど、北鎮記念館の展示を見て
「北海道の歴史が面白くない」なんてことは
決してないんだな、と感じました。


面白い人、素晴らしい人、
大きな夢、胸を打つ名言、壮大な苦労…

時間的には短くても、掘り下げていけば
すごいエピソードがたくさん出てきて、
学ぶ価値が大いにあります。

こういう話を知らずに大人になった道産子達、
これから大人になる小さな道産子達、
そして北海道を大好きでいてくれる皆様に
北海道の歴史の話をお届けしたいな、
と思いました^^

次回の(3)で完結編です。


参照:上川神社HP
http://www.kamikawajinja.com/kamikawa.html

posted by はなうた at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 北鎮記念館(第2師団) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月01日

封印されてきた旭川の町づくりの歴史〜北鎮記念館の展示を見て〜(1)

去る1月19日、北鎮記念館に行ってきました。
「旭川の歴史展」と「自衛隊ラッパの演奏」を
ぜひ見たい、と思ったからです(*‘∀‘)ぴかぴか(新しい)

「旭川の歴史展」は、「旭川市史」
(いわゆる郷土史です)を紐解こうと
立ち上げられた企画だそうです。
旭川市史.jpg
こういう、見るからに淡々としていて
事実だけを列記した字の細かい書物から
あんなに血の通った、生き生きした展示が
生まれるなんてすごい!と思いながら
今回の企画展を見ていました^^

そもそも…本州から遠く離れた蝦夷地の
真ん中より少し上に位置する旭川という土地が
なぜここまで機能的に整備され、発展したのか?


そこには、単なる「北海道開拓のプロセスの一つ」
と片づけるだけでは収まりきらない、
事前に考え抜かれた町づくりが見て取れるのです。

私自身、この展示で初めて知ったことも多く
とても勉強になりましたので、
概要を皆さまにシェアしたいと思い
ご紹介させていただきます^^

※「アイヌ」は「人、人類」という意味を表す言葉です。
したがって、「アイヌ民族」「アイヌ人」という表記は
言葉として誤ったものだと考えられますので、
ここでは「アイヌ」という表記で統一します。


それでは、旭川市史ウォッチングの始まりはじまり〜☆

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日本国が北海道(蝦夷地)に注目したのは、
18世紀の終わりごろのこと。

江戸幕府は、1798年(寛政10年)に
大規模な蝦夷地調査を行うことを決めました。

調査隊は、現在の様似(北海道南端部付近)や
宗谷(北海道北端部)、
果ては奥蝦夷(今のエトロフ島)まで渡りました。
奥蝦夷には「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。

そして、大規模な蝦夷地調査の結果、分かったことは…

・広大な奥蝦夷(エトロフ島)は、国境が不明瞭

・ロシアが進出していて、密貿易を行っている

・蝦夷地の支配関係は明確ではない。
 今後、アイヌがロシアになびく可能性もある


かくして調査の翌年の1799年、
奥蝦夷を含む蝦夷地は
幕府の直轄領となったのでした。


それからおよそ50年後の1853年には、
ロシアからプチャーチンが来日。

プチャーチンは、日露の国交と
カラフト・千島列島における
日露の国境確定を求めました。

このようなプロセスを踏まえて、
国境というものがだんだんにつくられたことを
私達は知っておいた方がいいと思うのです*^^*

さてさて話は、蝦夷地の「調査」の段階から
「開発」の段階へと進んでいきます!

1871年には、黒田清隆
当時の国会財政の4〜5%を占める
2000万円もの大金を投入して、
北海道を開拓する計画を決定。

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黒田清隆氏
薩摩の軍人で、中央政府で要職をつとめながら
北海道開拓にも貢献しました。

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クマのキャラクター「北鎮レンジャー」をあしらった
分かりやすくポイントを押さえた解説に萌えますw


当時の政府の、北海道にかける期待
この大きな金額から感じ取ることができますね^^

なお、このときの政府は
蝦夷地の豊富な鉱山資源にも
とても注目していたそうです。

また、我が町・旭川についてですが…(*´▽`*)

当時、旭川を含む地方は
石狩国上川郡(いしかりのくにかみかわぐん)
と呼ばれていました。
北海道庁の初代長官を務めた岩村通俊
上川に興味を持っていましたが…当時は

 「上川に行くと、アイヌにつかまり
 二度と戻って来れない」

という噂があって、行きたがる人がいませんでした。
そんな中で高畑利宣(たかばたけとしよし)が
名乗りを上げて、80日間かけて調査を行ったのです。

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岩村通俊氏
岩村さんのほとばしる北海道愛については
(2)の記事でご紹介します( *´艸`)

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高畑利宣氏。
謎と危険の多いとされる地域に
分け入って調査をした、男気あふれる方でした^^

そこで分かったことは、

・上川には、304人のアイヌが住んでいる。
 彼らの生活は、従来の和人の
 不当な交易によって
 きわめて困窮した状況である。
 官として正当な交易と救済に
 至急着手すべき


・上川の地を流れる石狩川は、
 水源としての利用価値が高い


・上川は山に囲まれ、強風もない。
 その地形は京都に似ている

・高燥平坦で、肥沃な土地が広がっている。
 建築資材としての樹林が豊富であり、
 さらには、試作した穀菜類の生育は
 札幌での生育をはるかに上回る。

 上川には、京都のような広い都市を
 作れる可能性がある


当時の人たちの北海道に対する夢や
ワクワクしている気持ちが伝わってきますね(#^.^#)

1877(明治10)年には、
上川で初めて和人が定住しました。
その人の名は、鈴木亀蔵(かめぞう)さんです。

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鈴木亀蔵氏。
若くてソフトで、おしゃれな感じの方ですね^^

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ピンボケでごめんなさい(人)
テーマごとにQ & Aも用いながら
印象に残る解説がなされていました


秋田県出身の亀蔵さんは、
20歳ごろに北海道に渡ってきました。
明治5〜6年ごろからアイヌとの商売を始め、
のちにアイヌの女性と結婚したそうです。

アイヌと和人の交流」というと、
どうしても「純粋なアイヌを騙した狡猾な和人」
というイメージにとらわれて
暗い関係性を想像してしまいますが…
そんなことばかりではなかったのです。

亀蔵さんは、その誠実な人柄で
アイヌから尊敬を受けていたそうです。

また、亀蔵さんの愛称であった「亀吉」は、
亀蔵さんが住んでいた地域の名前にもなりました。
(旭川市亀吉町)
人の「本名」ではなく「愛称」が地名となるケースは
全国でも珍しいのだそうです。
旭川に「亀吉町」があるということは、
鈴木亀蔵さんが、和人・アイヌを問わず
誰からも愛され慕われていたことの
証だったと言えるのではないでしょうか。


突然ですが、私は今、30代です。
そして小中高と旭川で教育を受けてきましたが
鈴木亀蔵さんのことは
学校でまったく習いませんでした。


また、今回この記事でご紹介したような
旭川という町の成り立ちも、
和人とアイヌとの関わりも
教わったことがありませんでした。


ただ何となく「和人はアイヌを侵略した悪者」
というイメージが折々で刷り込まれて、
漠然とした罪悪感を抱えたまま大人になりました。


そういった、失われた部分の教育の穴を埋めるべく
今、自分で徐々に勉強しているところですが…

アイヌが、ロシア人になるか日本人になるかを
選択する境地に立たされていたこと
や、

「和人=侵略」の概念ではくくれない
鈴木亀蔵さんのエピソード


また、当時の政府が下した
官として正当な交易と救済に
至急着手すべき」という考え方など…

地元・北海道ですらほとんど知られていない
重要な歴史的要素が、こんなにたくさんあるのだと
驚きと切なさをもって
今回の展示を眺めていました。

ちなみに、この話は余談ですが…

 「北海道民=アイヌを侵略した人達の子孫

という刷り込みをことあるごとに各地で行い、
「アイヌは傷つけられた民族だ!謝罪と損害賠償を!」
と主張している自称アイヌのグループがあるそうですが…

その言い草こそはまさに、近年まで「従軍慰安婦問題」で
日本を脅し、ゆすり、たかっていた(在日)韓国人
「南京大虐殺」でこれまた日本人をゆすり、たかっていた
中国共産党の主張にソックリ
だと思うのです。
いかがでしょうか?

ゆすり・たかりのバリエーションは豊富ですが、

 ・事実とは異なる情報をでっち上げる

 ・日本人の良心を傷つけて、脅す

という構図は、このアイヌ問題でも、
慰安婦問題でも、南京大虐殺問題でも、
いつでもまったく同じであります。

史実さえ知っていれば、
私たち日本人には反論できる余地はあります。
そして反論さえできれば、
私達日本人は不必要な罪悪感にさいなまれることもなく、
また、日本人みんなで築き上げてきた国の財産を
彼ら外部の人間に搾取されるおそれがなくなります。

人を脅して利益をむさぼりとろうとする、悪い人達から
身を護るためにも、歴史の勉強はとても有効だ!と
私は思っています。

そして正しい歴史を学ぶことで、私達は
本来日本人として持つべき誇りや、
努力を積み重ねてくれた先人達への感謝の気持ち、
さらには、日本人として生きる希望や喜びを
取り戻すことができるんだと信じています(*´▽`*)

そういう、自分達に力を与えてくれる歴史のいいお話を
これから学んでいって、少しずつ皆様に
シェアしていきたいなあと考えています。

ということで、このシリーズは(2)に続きます☆
((3)で完結予定です)

※この記事は、転載・引用・拡散フリーです。
ご自身の責任のもとにお使いください(人)
posted by はなうた at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 北鎮記念館(第2師団) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする