2016年01月17日

第七 天智天皇と藤原鎌足

皆様、ごきげんよう。
日曜の午後、いかがお過ごしでしょうか。

さて、前回の更新から、かなり時間が経ってしまいましたが
久しぶりに尋常小学校の教科書の国史シリーズをアップします。

今回取り上げる題材は「天智天皇と藤原鎌足」です。

この題材は、尋常小学校の国史の教科書では
前編・後編に分けられ、ページも多く割いて解説されていますが
これはすなわち、当時国史の教科書を作っていた人達が
この題材で扱ったできごとを特別重視していて、

子供達にしっかり理解させたいと考えてい
ことを示しています。

実際、この「天智天皇と藤原鎌足」で描かれた時期は、
出雲の国譲り明治維新と並んで
日本という国をシステム的にも精神的にも
大いに成長させた激動の時代だったのでは、と感じています。
私の学校時代には、ごくサラリとしか教わらなかった箇所でしたが
大人になった今では、こういうところこそしっかり学びたいと思います。

そして、前編であるこの「第七」の場面において
今を生きる私達が学ぶべきもっとも大切なテーマは
本文中にもある「君臣の別」だと確信しています。

それでは、「天智天皇と藤原鎌足」について
さっそく紐解いて学んでみましょう^^


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第七 天智天皇(てんぢてんのう)と藤原鎌足(ふぢわらのかまたり)
「尋常小學国史 上巻 昭和初期セット」より)

推古天皇の御代の前後に、
最も勢があつたのは、蘇我(そが)氏である。

蘇我氏は武内宿彌の子孫で、

代々朝廷の政治にあづかつてゐたため、
勢の盛なのにまかせ、しだいに
わがまゝなふるまひが多くなつた。

蘇我蝦夷(えみし)は、推古・
第三十四代舒明(じよめい)・
第三十五代皇極(くわうぎよく)
三天皇にお仕え申したが、
たいへん心のよからぬものであつたから、
勝手に大勢の人民を使つて生前(せいぜん)から
自分たちの墓(はか)を作り、おそれ多くも、
これを陵(みさゝぎ)といつた。

この時、聖徳太子の御女は、
「天には二つの日なく、國には二つの君はない。
しかるに、なぜかやうなわがまゝをするのか。」
と、大いにこれをおしかりになつた。

蝦夷の子入鹿(いるか)は、父にもまして
わがまゝなふるまひが多かつた。
殊(こと)に、自分に縁(えん)のある皇族(くわうぞく)を
御位にお卽(つ)かせ申しあげようと、
聖徳太子の御子孫を
ほろぼし、
はては自分の家を宮(みや)、
その子らを
王子(わうじ)と呼ばせて、
少しもはばかるところがなかつた。

蝦夷父子のやうなものは、朝廷を恐れたてまつらぬ
不忠(ふちゆう)の臣といはねばならぬ。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、この有様を見て

大いに怒り、朝廷の御ために、どうかして
入鹿父子をほろぼさうと決心した。
この頃、舒明天皇の御子
中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)も、

またかねてから蘇我氏のわがまゝなふるまいを
おにくみになつてゐたので、鎌足は、何とかして
自分の心を皇子にうちあけたいものと思つてゐた。

IMG_20151223_113938.jpg

(中臣鎌足が御靴を中大兄皇子にさし上げた)

ところが、ある時、皇子の蹴鞠(けまり)の
御遊(おあそび)に
まゐりあひ、御そば近くにゐると、
皇子の御靴(くつ)が
ぬげた。

これをとつてさし上げたのが縁となり、
これから皇子にお親(した)しみ申して、ひそかに、
同じ志(こころざし)の人々といつしよに、
謀(はかりごと)をめぐらしてゐた。

けれども、入鹿は、なかなか用心深くて、
家のめぐりに池を掘つて城のやうにかため、
出入の時には、大勢の人々を從へ、
少しもゆだんをしなかつた。


たまたま皇極天皇の御代に、
三韓から貢物をさし上げることがあつて、

大極殿(だいごくでん)で行はれる式に、
入鹿も参列(さんれつ)するから、

その折(おり)をさいはひに、これをほろぼすこととなつた。

皇子は、御自身(ごじしん)でほこをお持ちになり、

鎌足らは、弓矢や劒などを持つて、御殿のわきにかくれてゐた。
しかし、人々は、入鹿の勢に恐れて、ためらつてゐた。

皇子はたまりかねて、をゝしくもまつさきにお進みになつた。

そこで、人々もこれにつゞいて、とうとう入鹿を斬り殺してしまつた。
皇子は、あらためて天皇の御前に進み、
つゝしんで入鹿の不忠を申しあげられた。

この時、蝦夷は家にゐたが、入鹿が殺されたことを聞くと、

すぐ人々を呼集めて、皇子と戰はうとした。
皇子は、さつそく人をやつて、

わが國には昔から
君臣(くんしん)の別(べつ)があつて、
これを乱すのは不忠であるわけを、
ねんごろに説聞かせられたので、
人々はちりぢりに逃去り、蝦夷も、
家に火をつけて自害(じがい)した。


 武内宿禰―蘇我石川(いしかは)…馬子―蝦夷―入鹿


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「君臣の別」というテーマは、尋常小学校の国史の教科書では
これ以降の単元においてもたびたび出てきますが、
蘇我氏の「君臣の別」の逸脱ぶりは、とりわけ強烈なものでした。

上の教科書の本文には出てきませんが、
蝦夷の父である蘇我馬子(うまこ)は、三第三十二代崇峻天皇
(聖徳太子が仕えた推古天皇の一代前の天皇)畏れ多くも弑逆
(しぎゃく=目下の者が王を殺すこと)した人物として知られています。

長い長い日本の歴史において、臣下が天皇を手にかけた事件は
後にも先にも、この1回だけだったといわれています。
それほどまでに、空前絶後の大事件でした。

また、皇極天皇(天智天皇(=中大兄皇子)と天武天皇の母)
の御代には、本文にもありますように、馬子の息子である蝦夷が
人民をこき使って自分用の大きな墓をつくらせ、その墓を
(みささぎ。天皇・皇后の眠られるお墓)と呼ばせていました。

自分の墓の呼称を、天皇の墓の呼称と同じくしたということは
蝦夷が「自分は天皇と同等の存在である」とおごり高ぶり、
顕示しがっていたことを示しています。


同じく本文にありますように、蝦夷の息子・入鹿は
自分の子供を「皇子」と呼ばせていました。
さらに蝦夷は、当時皇族の内外から人望があり慕われていた
山背大兄王(聖徳太子の息)を殺めてしまいました。

おそらくは山背大兄王を、自分の地位や権力を脅かす
厄介な存在だと恐れていたからでしょう。

蘇我氏はまさに、文字どおり
「やりたい放題」にやっていたわけです。

天皇や皇族はといえば、
当時から特別な存在ではありましたが
その周辺をがっちりと取り囲んでいたのは
蘇我氏のような、発言力のある豪族達でした。
次代の天皇を決めていたのも、皇族ではなく豪族達だったのです。

「天には二つの日なく、國には二つの君はない」
にも拘わらず、
既におわします「君」をさしおいて軽んじ、
皇孫ではない者が「君」に成り替わろうとすることが
後を絶たなかったわけです。

これでは国家は、いつまで経ってもまとまりません。

後に、天武天皇(天智天皇(=中大兄皇子)の弟宮)は
国家の大事業の一つとして
古事記(国内に向けて書かれた歴史書)と
日本書紀(国外に向けて書かれた歴史書)の
編纂を命じられました。
それは、天武天皇が、
国家意識のまとまりや強化を促すために
日本の成り立ちを明らかにして広く知らしめることが
必要不可欠であるとお考えになられていたからです。
果たしてそのお考えは、誠に正しいものでした。

国史編纂については、聖徳太子の時代から
既に構想はあったのですが、資料が散逸するなどして
実現には至りませんでした。
国史の編纂は難業であり、かつ重大な事業であったのです。

そして、元明天皇の御代において
ようやく古事記と日本書記が完成したわけですが…

これらの書物が、1600年の時を経た現代に至るまで
「国家の過去の重要記録」として受け継がれている上に、
今を生きる私達が、この記録に書かれた言葉を
自分達が使っている言葉の古語として理解でき、
さらには直感的に楽しみ、味わうことすらできているのです。

このようなことは、世界的に見ても本当に珍しく、
ただただありがたいと思う次第であります(-人-)

ところで、もし、上の文章で出てきた蘇我氏が

人生の早い段階において、
古事記のようなお話にしっかりと触れる機会があって、

日本の成り立ちや日本という祖国に
深く感銘を受けていたならば、

もしかして、彼らの人生はもう少し違っていたのではないか?

と想像することがあります。

私は昨年から本腰を入れて古事記を読み始めましたが、
古事記の最初の方に描かれている神話の世界観は
ただただ「素晴らしい!」の一言に尽きます。

神話には「中心」の重要性と、「思い」それ自体のもつ力の確かさ、
「主」と「従」/「陽」と「陰」がそれぞれに担う大切な役割、
めいめいが与えられた役割で力を発揮し、
調和してはたらくことの大切さが
次々と形を変えながら
物語の中で繰り返し描かれることで、
読み手の心に浸透するようになっているのです。

ですから、古事記の世界に浸っていると自然と
「こんなにもハイレベルで、豊かな哲学をもった日本はすごい!」
というワクワクした、感動の思いで胸がいっぱいになってきます。
そして、こんなすごい国に生まれたのだから、
自分自身も与えられた役割の中で、調和を目指して
よりよい国を作っていきたい、という思いが芽生えるはずなのです。
古事記の世界に、きちんと触れさえすれば。

逆に、国の成り立ちや意味に感動したり、愛する心を育てていかないと
自分自身の中に中心や根っこを感じられず、不安定な状態になります。
あるいは、「本物の中心」になり替わって我こそが中心になってやろうと
間違ったやり方で強引に他をねじ伏せてしまい、その結果、
あるべき調和と繁栄の状態から遠のいてしまうのだと思います。

そういう、正しくない状態に陥らないように、
私達を危険から食い止め、守り育て、豊かにするのが「古事記」であり、
その「古事記」の世界観から現実に応用できる真実の一つとして
たとえば「君臣の別」があるのだろうと考えます。

君と臣、それぞれの意味を理解することの尊さ。

君は君、臣は臣として、
それぞれに精一杯はたらくことの美しさ。

それらの尊さや美しさを行動の軸に据えることで、
国家ははじめて平安のうちにまとまり、
また国民も十分な豊かさや喜びを
手にしていけるのだと
私は考えます。

そんな理想は、決して実現しない夢物語だと
思われる方もおられるかもしれませんが、
私は、日本国と日本人であれば
そういう理想をかなり高いレベルで実現できるはずだと思います。
また、その実現を目の当たりにした各国の人々が動き出すことで
世界全体の状態もよりよく変わっていくはず、と信じています。

(逆にいえば、それ以外の方法で
世界をよりよくするやり方を私は思いつきません。
はっきり言いすぎてしまい恐縮ですが、
世界のリーダーとしては、アメリカはもはや終了、ロシアも落第、
ヨーロッパやオーストラリアは移民に飲まれて大騒ぎですし、
アジア・アフリカ・南米に至っては
世界をまとめるどころの状態
ではありません。
現実的に考えて、日本が先に立って手本を示すしか道はありません)。

世の中がこんなにざわついているときに、
のんびり歴史の勉強なんかしている場合ではない!
というツッコミも入りそうですが、
大変なときだからこそなおさら、
めいめいが自分の心の基盤をしっかり固めて
安心した上で自由活発に動けたほうがよい!
と思っています。

世界がこれまでに抱えていた矛盾や混乱や欺瞞は、
もう、隠しようもなく表に現れてきています。
また、ものごとの変化が非常に速く、とらえにくくなっていて
確かに難しい時期に入ってきてはいるのですが…

私達日本人は学ぶべきを学び、自分自身をしっかりと保ち、
共感しあえる仲間たちと励まし合いながら、
浮上の過程で現れる障害を乗り越えていきたいと考えています。

なんだか話がいろいろと壮大になってしまいましたが(汗)
先人達が遺し、受け継いできてくれた日本の素晴らしい力を
信じて、活用しながら乗り越えていきましょう。

次回「第八 天智天皇と藤原鎌足(つづき)」に続きます!


posted by はなうた at 14:01| Comment(0) | 尋常小学校の国史を学ぼう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月29日

尋常小学校の国史を学ぶ〜「第六 聖徳太子(しょうとくたいし)」

皆様、ごきげんよう〜。

本日は、尋常小学校の国史の教科書から
聖徳太子のお話をご紹介します。
日本人なら、誰もが知っている有名人ですよね^^

ところで、とてもお若い方はご存知ないかもしれませんが…(笑)
聖徳太子は、日本で初めて発行された一万円札に描かれた
特別な人物でもありました。

一万円札.jpg

こちらの一万円札は、現在でも使用可能ですが
1986年1月4日をもって支払停止とされています。
改めて見ると、セピア色とグリーンを基調とする格調高いデザインで
味があって良い感じですよね〜晴れ

さて聖徳太子と言えば、中部大学名誉教授である大山誠一氏が

「聖徳太子は、日本書記の編者が大げさに美化して書き上げた
虚構の人物像である。厩戸皇子が実在したことは認めるが、
かの皇子には、実際のところ対した功績はなかった」

という説を打ち立てて広めたことで、
一時期は大論争が巻き起こっていました。

その大山説の影響を受けて、一部の教科書では
これまで「聖徳太子」と書いていた人物をあえて「厩戸皇子」
という表記に変えるという動きまで出てきたそうです。

まあ、そういったあたりのことをうっすらと気にかけつつ、
まずは尋常小学校の教科書の文章を読んでみましょうか\(^o^)/


****************

第六 聖徳太子
「尋常小學国史 上巻 昭和初期セット」より)

仁徳天皇から御十八代めの天皇を、
第三十三代推古天皇と申しあげる。
天皇は女帝でいらつしやつたから、
御甥(おんおい)の聖徳太子
摂政(せつしやう)として、
政治をおまかせになつた。

太子は御生まれつき人にすぐれてお賢く、
一時に十人の訴(うつたへ)をあやまりなく
お聞分(ききわ)けになつたとさへ傳へられてゐる。
その上、朝鮮の學者について深く學問を
おをさめになつたので、進んだ御考をおもちになり、
朝鮮や支那(しな)のよいところを取入れて、
いろいろ新しい政治をおはじめになつた。

さうして、遂には十七條の憲法を定めて、
官吏(くわんり)も一般の人民も、皆つねに
心得ておかねばならないことをお示しになつた。

太子は、また使を支那にやつて、
外國とのつきあひをおはじめになつた。
その頃、支那は國の勢が強く、
學問なども非常に進んでゐたから、日頃高ぶつて、
他の國々を皆属國のやうに
取りあつかつてゐた。
けれども、太子は少しも

その勢にお恐れになることなく、
かの國に送られた國書にも、

「日出づる處(ところ)の天子、
書を日歿(ぼつ)する處の天子にいたす、
恙(つつが)なきか。」

とお書きになつて、どこまでも對等(たいとう)の
つきあひをなさつた。

2015092920462900.jpg

支那の國主(こくしゅ)は、
これを見て腹を立てたが、
ほどなく使を
わが國に送つてきた。
そこで、太子も、
あらためて
留學生をおつかはしになつた。


その後、引きつゞいて互にゆききを
するやうになつたから、これまで朝鮮を通つて
わが國に渡つて來た學問などは、これからは、
すぐ支那から傳わることとなつた。

さきに、太子の御祖父でいらつしやる
第二十九代欽明天皇の御代に、
佛教
はじめて百済から傳わつて來た。
太子は、深くこれを信仰して、
多くの寺をお建てになつたり、
またしたしく教をお説きになつたりして、
熱心に御力をつくされたので、これから佛教は
だんだん國内にひろまつた。

かうして佛教がひろまるにつれて、
建築やその他の
技術なども、目立つて進んだ。
太子のお建てになつた寺の中で名高いのは、
大和の法隆寺で、そのおもな建物は、
今も昔のまゝであるといはれ、
わが國で一ばん古い建物である。

かやうに、太子は、内に於ても、外に對しても、
大いにわが國の利益をおはかりになつたが、
まだ御位にお卽きにならないうちに、御病のため、
とうとうおなくなりなつた。この時、世の中の人々は、
親を失つたやうに、皆なげきかなしんだ。

****************

さて、冒頭でお話した大山氏の学説についてですが、
以前、新しい歴史教科書をつくる会の「日本史検定講座」を
受講していたときに、高森明勅先生が解説してくださった
興味深いお話を以下に簡単にまとめてみます。

1.「古事記」が書かれたのは712年
2.「播磨國風土記」が書かれたのは713〜715年
3.「日本書記」が書かれたのは720年
4.「日本書記」より古い時期に書かれた「播磨國風土記」には、
 聖徳太子について以下のような記述がある

「…名号を大石といふ。
伝へていへらく、聖徳の王の御世(みよ)、
弓削(ゆげ)の大連(おおむらじ)の造れる石なり」

弓削の大連とは、物部守屋(もののべのもりや)を
父方の物部ではなく、母型の弓削の方で表した呼び名だそうです。
「日本書記」では「物部の弓削の守屋」と書かれていたそうで
「物部の弓削の守屋」=「弓削の大連」=「物部守屋」であります。

さて、そういったことを踏まえて、
上の「播磨國風土記」の文を
現代語的にかみ砕いてみますと…

「…大石と呼ばれるその石は、聖徳王の御世に
物部守屋が造ったものだと伝えられている」

といった内容になります。

当時から、天皇に対してのみ使っていた
「御世」という特別な言葉を、
「播磨國風土記」では
「聖徳王」に対して使っていることにご注目ください♪


つまり、「日本書記」の記述で見られた聖徳太子の
「摂政」という地位が、別の文献である
「播磨國風土記」の記述によって裏付けられたわけです。
そして「聖徳王の御世」という言葉からは、
「聖徳王」が天皇に匹敵する存在であったことが伺えるわけです!

以上のことから、大山説の「聖徳太子は日本書記の編者が
でっちあげたヒーローだ」という主張は崩れ去ったのでした。


「播磨國風土記」以外にも、聖徳太子の活躍を示す
確かな論拠はほかにもあります。
法隆寺の本堂に納められている釈迦三尊像の光背
(仏像などで後光を表した部分)の裏側には、
像の完成に合わせて銘文が彫り込まれていますが、
この釈迦三尊像は623年ごろに造られたものだそうです。
聖徳太子がお亡くなりになったのが622年ごろだそうですから
亡くなられる直前か、あるいは直後ぐらいに
この仏像が造られたのでしょうか。
物証としては、さきほどの「播磨國風土記」や「日本書記」よりも
さらにタイムリーなものになりますね。

(ちなみに、こちらが法隆寺の釈迦三尊像です↓)

釈迦三尊像.jpg

さて、この像の光背の銘文において、聖徳太子は
「上宮法王(じょうぐうほうほう)」
という呼び方で紹介されています。
この敬称は、聖徳太子が仏教において
卓越した指導者であったことを示しています。
また、銘文の中にある

「当(まさ)に釈像(しゃくぞう)の
尺寸王身(しゃくすんおうしん)なるを造るべし」

という記述は、現代語的にいうなれば、

「(この)お釈迦様の像は、ちょうど聖徳太子の
等身大ぴったりになるように作りましたよ」


ということになります。
このような仏像の作り方はすなわち、聖徳太子が
当時の日本において、お釈迦様のように立派で
尊敬される人物とされていたからこそ採用されたわけです。
かくして、この釈迦三尊像の成り立ちを調べたことで、
聖徳太子ご本人の身長(びっくり情報ですね〜)や
当時の人々に尊敬さていたことが
明らかになったのでした\(^o^)/

…という高森先生のお話がとても印象に残っていたので、
勉強していた当時の資料をひもときながら
皆様にも簡単にご紹介した次第です^▽^
面白いですよね!歴史のお話♪


それから聖徳太子と言えば、
小野妹子に持たせたという例のカッコイイお手紙
のことにも触れずにはいられません。

「太陽が昇るところの天子が、太陽が沈むところの天子に
お手紙を差し上げますよ〜。ごきげんいかが?笑」

この一文だけでね、もうねぇ…なんといいますか
ご性格のよさがにじみ出ていますよね(笑)
ブログ主は、聖徳太子ドS説を提唱していますがw、
聖徳太子は、この文面を思いついた瞬間にきっと
ものすごく爆笑なさったのではないでしょうかww
個人的には、ぜひお友達になりたいタイプですよwwww


ちなみに。高森先生の解説によりますと、
当時の隋は高句麗と激しく戦っていたそうです。
高句麗は隋にとって、何度戦っても倒せないくらい
かなり手ごわいライバル国でした。
そういった隋VS高句麗の内情を知っていた聖徳太子は
隋と高句麗が争いを始めたことをきっちり確認した後に
タイミングを見計らって遣隋使をやり、

「もし隋が私達日本の機嫌を損ねるようなことをしたら、
日本はあなた方の敵国である高句麗の味方について
隋の不利になることをいろいろとやっちゃいますからね?」


的な、強気の態度に出たわけです。かくして

「あなた方のところには
煬帝という天子がおられるそうですが
こちらにも推古天皇という
天子がいらっしゃるんですよ〜(笑)。
あらまあ、奇遇ですね〜、
どちらにも天子がいるということは、
私達はお互いに対等なのでしょうね〜(笑)(笑)」


というメッセージを送ったのでした。
THAT'S王道外交!すっごくクールですよねぇ、聖徳太子。
したたかであり、おもねらない、ユーモアのセンスもあり頭もよい、
本当に興味深い人物だなあと思います\(^o^)/

こんなに才能豊かで聡明な聖徳太子が、
仏教のどんなところに心を惹かれ、
なぜ精力的に広めようとしていたのか、
また仏教の布教によって日本をどんな国にしたいと考えていたのか、
ご本人にぜひインタビューしてみたいなあ…と楽しく想像しました♪


さて、聖徳太子の素晴らしさに惚れ惚れしていると
どんどん話が長くなりますので、最後のポイントに移ります。
聖徳太子と言えば、締めはこれでしょう!十七条の憲法でしょう!

現代語訳を、↓から転載してご紹介して、
本日の記事をおしまいにします。

ちなみに、こちらの現代語訳を読んでみて思ったのですが
聖徳太子のことをドSとか言って申し訳ありませんでしたw

なんとも先見の明があり、高い理想を恐れずに掲げ、
目下の者に対する愛情があり、己を律する力もあり…
本当に素晴らしい人だったのだなあと改めて思いました。
聖徳太子が、お釈迦様のことを篤く尊敬していた思いも
この十七条の憲法からは伝わってきます。

私達の国・日本においてはるか昔に、
こんな立派な人がこんな優れた提案をして、
世の中を明るく照らそうとしていたことを、
現代日本人である私達はぜひ知っておいたら
よいのではないかな、と思いました*^^*


***********************

十七条の憲法

第一条
一にいう。
和をなによりも大切なものとし、
いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、
悟りきった人格者は少ない。
だから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、
近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も
協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、
おのずからものごとの道理にかない、
どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条
二にいう。
あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。
3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。
それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、
すべての国の究極の規範である。
どんな世の中でも、いかなる人でも、
この法理をとうとばないことがあろうか。
人で、はなはだしくわるい者は少ない。
よく教えるならば正道にしたがうものだ。

ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、
何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条
三にいう。
王(天皇)の命令をうけたならば、
かならず謹んでそれにしたがいなさい。
君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。
天が地をおおい、地が天をのせている。
かくして四季がただしくめぐりゆき、
万物の気がかよう。
それが逆に地が天をおおうとすれば、
こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。
そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。

上の者がおこなうところ、
下の者はそれにならうものだ。
ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、
かならず謹んでそれにしたがえ。
謹んでしたがわなければ、
やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

第四条
四にいう。
政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。
人民をおさめる基本は、かならず礼にある。
上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、
下の者が礼法にかなわなければ、
かならず罪をおかす者が出てくる。
それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは
社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば
国全体として自然におさまるものだ。

第五条
五にいう。
官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、
訴訟を厳正に審査しなさい。
庶民の訴えは、1日に1000件もある。
1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。
このごろの訴訟にたずさわる者たちは、
賄賂(わいろ)をえることが常識となり、
賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。

すなわち裕福な者の訴えは
石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、
貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので
容易に聞きいれてもらえない。
このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。
そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

第六条
六にいう。
悪をこらしめて善をすすめるのは、
古くからのよいしきたりである。
人の善行はかくすことなく、
悪行をみたらかならずただしなさい。
へつらいあざむく者は、
国家をくつがえす効果ある武器であり、
人民をほろぼすするどい剣である。
こびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、
下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。
これらの人たちは君主に忠義心がなく、
人民に対する仁徳ももっていない。
これは国家の大きな乱れのもととなる。

第七条
七にいう。人にはそれぞれの任務がある。
職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。
賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。
よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。
世の中には、生まれながらに
すべてを知りつくしている人はまれで、
よくよく心がけて聖人になっていくものだ。
事柄の大小にかかわらず、
適任の人を得られればかならずおさまる。
時代の動きの緩急に関係なく、
賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。
これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。
だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、
人のために官職をもうけたりはしなかった。

第八条
八にいう。
官吏たちは、早くから出仕し、
夕方おそくなってから退出しなさい。
公務はうかうかできないものだ。
一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。
したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、
はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

第九条
九にいう。
真心は人の道の根本である。
何事にも真心がなければいけない。
事の善し悪しや成否は、
すべて真心のあるなしにかかっている。
官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。
群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

第十条
十にいう。
心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、
ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。
人それぞれに考えがあり、
それぞれに自分がこれだと思うことがある。
相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、
自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。
自分はかならず聖人で、
相手がかならず愚かだというわけではない。
皆ともに凡人なのだ。
そもそもこれがよいとかよくないとか、
だれがさだめうるのだろう。
おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。
それは耳輪には端がないようなものだ。
こういうわけで、相手がいきどおっていたら、
むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。
自分ではこれだと思っても、
みんなの意見にしたがって行動しなさい。

第十一条
十一にいう。
官吏たちの功績・過失をよくみて、
それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。
近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、
懲罰は罪によらない。
指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、
賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。

第十二条
十二にいう。
国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。
国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。
国内のすべての人民にとって、
王(天皇)だけが主人である。
役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、
みな王の臣下である。
どうして公的な徴税といっしょに、
人民から私的な徴税をしてよいものか。

第十三条
十三にいう。
いろいろな官職に任じられた者たちは、
前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。
病気や出張などで職務にいない場合もあろう。
しかし政務をとれるときにはなじんで、
前々より熟知していたかのようにしなさい。
前のことなどは自分は知らないといって、
公務を停滞させてはならない。

第十四条
十四にいう。
官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。
自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。
嫉妬の憂いははてしない。
それゆえに、自分より英知がすぐれている人が
いるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。
それでは500年たっても賢者にあうことはできず、
1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。
聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては
国をおさめることはできない。

第十五条
十五にいう。
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。
およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。
恨みがあれば、かならず不和が生じる。
不和になれば私心で公務をとることとなり、
結果としては公務の妨げをなす。
恨みの心がおこってくれば、
制度や法律をやぶる人も出てくる。
第一条で「上の者も下の者も
協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」
といっているのは、こういう心情からである。

第十六条
十六にいう。
人民を使役するにはその時期をよく考えてする、
とは昔の人のよい教えである。
だから冬(旧暦の10月〜12月)に暇があるときに、
人民を動員すればよい。
春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。
人民を使役してはいけない。
人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。
養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

第十七条
十七にいう。
ものごとはひとりで判断してはいけない。
かならずみんなで論議して判断しなさい。
ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。
ただ重大な事柄を論議するときは、
判断をあやまることもあるかもしれない。
そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

**************************


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2015年09月21日

尋常小学校の国史を学ぶ〜「第五 仁徳天皇(にんとくてんのう)」

皆様、ごきげんよう^^
いかがお過ごしでしょうか。

本日、9月21日は「敬老の日」です。
今回の記事では、敬愛する心のおじいさん、
日本人にとって魂の長老の一人とも言える
素敵な人物のお話を取り上げます。

その素敵な人物とは、「民のかまど」
という言葉でとても有名な仁徳天皇です。

仁徳天皇のお父さんは応神天皇で、
お子さんですから、仁徳天皇は、
神功皇后のお孫さんということになるわけですね^^

また、この記事の後半で改めて詳細を述べますが
仁徳天皇の「民のかまど」の大御心(おおみこころ)は、
昭和天皇にも今上陛下にもみごとに受け継がれています。

仁徳天皇の「民のかまど」は、
とても心が温まる、素敵なお話ですので
この機会に、皆様にもぜひ知っていただきたいです!
それでは、さっそくご紹介しまーす^▽^


**************************

第五 仁徳天皇
「尋常小學国史 上巻 昭和初期セット」より)

第十六代仁徳天皇は、應神天皇の御子で、
御なさけ深く、いつも人民をおあはれみになつた。

天皇は、都を難波(なんば)におさだめになつたが、
皇居(くわうきよ)はいたつて質素な御つくりであつた。

天皇は、ある日、高い御殿におのぼりになり、
四方をおながめになると、
村々から立ちのぼる
かまどの煙が
少かつたので、これは、きつと

不作(ふさく)で食物が足らないためであらう。
都に近いところでさへ
こんな有様(ありさま)であるから、

都を遠くはなれた國々の人民は
どんなに
苦しんでゐることだらうと、
ふびんにお思ひになり

三年の間は税ををさめなくてよいとおほせ出された。

そのため、皇居はだんだんあれてきたが、
天皇は少しも御氣にもおかけにならず、
御召しものさへ新しくおつくりになることも
なかつたくらゐである。

そのうちに、豊年(ほうねん)がつゞいて、
村々の煙も盛に立ちのぼるやうになつた。

天皇は、これを御らんになつて、
「われは、もはやゆたかになつた。」とおほせられ、
人民がゆたかになつたことを、この上なく
およろこびになつた。

IMG_20150920_141709.jpg

(仁徳天皇が盛に立ちのぼるかまどの煙を御らんになつた)

人民は、皇居がたいへんあれくづれてゐると
傳(つた)え聞いて、もつたいなく思ひ、
税ををさめ、
また新しく皇居をお造り申し上げたいと
願ひ出たが、
天皇はお許しにならなかつた。

けれども、人民は、なほ熱心に
たびたびお願い申し出たので、
その後三年たつて、
やうやくお許しになつた。

人民は、よろこびいさんで、われ先にとはせ集り、
夜を日についで、いつしやうけんめい
工事にはげんだので、
皇居はわづかの間に美しく出來上(できあが)つた。

天皇は、なほ人民のためをおはかりになつて、
堤(つつみ)を築かせたり、池を掘らせたりして、
農業をおすゝめになつた。
それ故(ゆえ)、人々は、皆深く天皇の御恩に感じて、
それぞれ自分のつとめにはげんだので、
世の中がよく治まつた。

**************************

いかがでしたでしょうか。
短いながらもたいへん心和む、よいお話だと思います。

ところでブログ主は、数年前に仁徳天皇陵に行きました(*´▽`*)
仁徳天皇陵とは、大阪府堺市にある御陵(皇室のお墓)で、
面積的には「世界一大きなお墓」として知られています。
緑が豊かで、とても穏やかな雰囲気の森でしたよ〜。

仁徳天皇陵.jpg

一般人であるブログ主は、画像のような距離感で
入口から少し離れたところまでしか入れませんでしたが、
それでも「ああ、ここが…民家から昇る、
ご飯を焚くたくさんの煙をご覧になって、

自分のことのように喜ばれたご立派な天皇のお墓なんだ…」
と思い、しみじみと嬉しくありがたく感じたのでした(*-ω-人)かわいい


ではここで、昭和天皇と今上陛下による、
現代バージョンの「民のかまど」のお話もご紹介します♪


1945年5月の空襲で、東京は焼け野原となり、
多くの市民が犠牲となりました。
また、このときに撒かれた焼夷弾は皇居にも投下されて、
明治宮殿をはじめおよそ30棟が全焼してしまいましたが、
その報せをお聞きになられた昭和天皇は

「そうか、焼けたか。これでやっと皆と同じになった」

とおっしゃったそうです。

そして、爆撃でお住まいが焼失した両陛下は
皇居内に防空壕としてしつらえてあった「御文庫」に
仮住まいなさることになられました。
かくして両陛下は、御文庫にて終戦の8月15日を過ごされ、
そこからさらに16年も経過した1961年まで
ずっと御文庫にお住まいになられていました。

ところで、当時の御文庫はというと
「背広をつるしておくと
2〜3日でジットリ湿ってしまう」
ほどに湿度が高く、
また、日当たりも風通しも
決してよろしくはない環境だったそうです。
おそらく、カビなどもすごかったのではないでしょうか…。

御文庫付属室(昭和天皇の防空施設)の出入口.jpg

(御文庫付属室の出入口。見るからに湿気が多そうです)

そこで、陛下のご健康を案じた侍従が
御文庫の修繕や新宮殿の建設を申し出たのですが、
陛下はこうおっしゃり、お断りになられていたそうです。

「世の中には住む家のない人もあるのに、
私にはこれだけのものがあるのだから…」

「湿気ると言っても、印象だけでは問題にならない。
数学的な根拠を示さなければ」

侍従たちは一年かけて御文庫のデータを取り、
環境の劣悪ぶりを立証したことで
ようやく陛下は御文庫の修繕をご納得されたそうです。

その後、侍従も政府も陛下に新居へのお引越しを
再三ご提案申し上げていましたが、

「皆が空襲や引き揚げで
住むところもなく苦労しているのに、
自分だけそうするわけにはいかない」

と、ずっとお断りされていたそうです。

最終的に、両陛下がご新居となる
吹上御所へお引越しをされたのは、
皇太子(今上陛下)の御成婚からさらに2年後の
1961年12月のことでしたが、そのとき、
陛下はこんなお言葉をつぶやかれたそうです。

「こんないい家に住めるようになったのも
みんな国民のおかげだ」

仁徳天皇の「民のかまど」のお話と、
こちらの昭和天皇の御文庫のお話は
「同一人物のエピソードかな?」と思うほど
同じ質の優しさや清らかさに貫かれています。
これは、民のかまどを思う仁徳天皇の精神が時代を超えて
昭和天皇に受け継がれていることを表しているのだなあ…
とブログ主は感じたのですが、
皆様はどうお感じになりますか?^^

また、ブログ主は同じく数年前に、皇居参観
(いわば皇居の敷地内の見学です。無料ですが要事前申込)
に行ったことがありました。
その折に案内してくださった係の方が、
今上陛下のことを少しだけお話してくださったのですが天

「3.11以降、陛下は被災地の方々のことを思われて
積極的に節電をなさっていますが、
照明設備だけでなく、冷房も暖房も
極力使わないようになさっているのですよね。
『これぐらいの暑さなら、私は平気だから…』とおっしゃって、
夏の暑い最中でも、なかなかクーラーをお使いになりません」

そのお話を伺って、私と同行の友人はこんな感じ(;O;)になり

友人「そんなのダメ、ゼッタイ!
陛下は日本で一番ご健康でいていただきたい方なのだから、
そんな、お体に堪えるようなことはしてほしくないよ!
うわぁぁん(涙目)」

ブログ主「ああ!陛下ごめんなさい!
私、夏の夜が寝苦しくて、あっさりクーラーを使ってました!
私なんて、陛下よりもずっと若造ですのに!
しかも、陛下は大手術だってなさっていますのに!

陛下の大御心(おおみこころ)が大きすぎてお優しすぎて、
愛国の友人と一緒にびっくりして切なくなったものでした…。

昭和天皇や今上陛下の大御心は、
いつだって私達国民と共にあらせられるんだ、
と感じられる、現代の「民のかまど」なお話は
上記エピソードのほかにもたくさんあります。
ここではその全てを到底紹介しきれませんので、
ご興味のある方はぜひ一度調べてみてください\(^o^)/黒ハート


話は変わりますが、皇紀(日本のオリジナルカレンダー)は
2675年もの長きに渡り、一度も絶えることなく続いています。
これは「日本の暦は西暦よりも長い」ということを示してもいます。
また日本は、世界で一番長く存続している国であり
「皇帝(国王よりも上)」クラスの存在をいただく
世界で唯一の国家でもあります。
これらのバックボーンにより、日本は世界中の国々から
一目置かれる国家となっているわけです。

(余談ですが、「中国四千年の歴史」のイメージを持つ
「中華人民共和国」が建国されたのは、1949年のことです。
2015年の今年で建国66年目を迎えた、若い国です。
また、第二次世界大戦は1945年に終結していますので
戦時中は「中華人民共和国」なる国は存在しませんでした。
ここは、いずれテストに出る超!大事なところですので、
日本人の皆様はぜひ覚えておきましょう\(^o^)/)

日本という国が、天皇というご存在をいただきながら
なぜこれだけ長く存続することができたのかと考えると、
それはもちろん、仁徳天皇のような立派なお方や
そういった方をお支えする、素晴らしい人物がいたから…
ということももちろん大きな理由なのですが、
ブログ主は「民のかまど」のお話から読み取れるような、
天皇を思う国民の心の美しさにも深く注目したいのです。

人が、優しさや思いやりを持ってしてくれたことに対して
「ありがたい」「お返ししたい」と思える国民性だったからこそ、
日本という国は穏やかで豊かな暮らしを実現できたのだと
ブログ主は考えています。
もしも、「世の中が豊かになるまで、自分は我慢する」という
仁徳天皇の大御心を悪用してしまうような国民性であったら、
仁徳天皇がどれほど立派な人物であったとしても、
その治世は決して豊かになることはなかったでしょう。
天皇と民がお互いを思い、支え合う心があったからこそ
みんなで一緒に繁栄を成し遂げられたのではないでしょうか。

人様の好意を図々しく利用したり、
いたずらに調子に乗ったりするのではなく
していただいたことに対して素直に感謝して、
何倍にもしてお返ししたい…と思うことは
日本人の素敵な性質の一つだ、とブログ主は考えてます。
そういった性質を悪用されたりもありつつ
いつしか私達はここまで来たわけですが…それでも、
この「民のかまど」にも示されているような
「感謝して助け合う心」を私達は誇りに思い、大切に育てて、
いずれ世界にその心を広げていく存在になれたらと願ってやみません。




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2015年08月27日

尋常小学校の国史を学ぶ〜「第四 神功皇后(じんぐうこうごう)」

皆様、いかがお過ごしでしょうか^^

本日は、国史の記事をアップします♪
今回取り上げる人物はといいますと!
あの、伝説のスーパーヒロイン!!
神功(じんぐう)皇后ですぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

前回の国史の記事では、日本武尊をご紹介しましたが
その日本武尊のご子息・仲哀(ちゅうあい)天皇の
皇后となられた女性が神功皇后であります。

もしかしたら「神功皇后」のお名前を
初めて聞く方がおられるかもしれませんが…
戦前の日本では非常に親しまれていた方でした*^^*

歌川国芳(神功皇后).jpg

こちら↑は、歌川国芳が描いた神功皇后です。

歌川国芳といえば、江戸時代末期に活躍していた
人気浮世絵師の一人です。
この絵は「賢女八景」という連作の中の一枚で、
皇后が弓を担ぎ、船を率いる勇姿が描かれています。

歌川国芳は、神功皇后に思い入れがあったようで
この絵以外にも神功皇后をモデルにした作品を
何枚も発表していました。
たとえば、こんな作品も残っています。

神功皇后(坂東三津五郎).jpg

この絵の場合は「坂東三津五郎」「中村芝翫」
という文字が書き込まれていますので、
おそらくは当時の歌舞伎のポスターであって、
舞台の演目として神功皇后の物語が
上演されていたのかなと思われますが…

いずれにせよ、こういった浮世絵の作品からは
江戸の町における神功皇后人気が見て取れます^^

また神功皇后は、崩御後は神様として
全国の神社で祀られました。
その奇跡的な出産のエピソードから
安産の神様として親しまれましたが、それだけでなく
生前の大活躍により武運の神様(武神)として
全国の武士達に崇敬されてきました。

以上のことから神功皇后は、
庶民から武士層に至るまで幅広く愛されていたこと、
また単に「強い女性」というだけでなく
「賢い女性」「母性の象徴」としても
尊敬されていたことが分かりますぴかぴか(新しい)


それから、時代は下がりまして明治以降の話になります。
こちら↓は、乾淑子著『着物柄に見る戦争』
p.118〜119の見開きであります。

IMG_20150824_190536.jpg

掲載された資料は、いずれも戦前・戦中のものですが、
一つ身(乳幼児用の着物)や袱紗(ふくさ)、
そして幟(のぼり。五月の節句などに飾る旗)に
神功皇后と忠臣・武内宿禰(たけうちのすくね)が描かれています。

こういった布の作品のほかにも、
左ページ右下にあるような土人形をはじめ、
舞台用の人形や五月人形(!)まで作られていました。
さらには雑誌の挿絵や絵葉書、錦絵、掛け軸、
お祭りの山車(だし)としても神功皇后は定番のモチーフで
神武天皇と並んで人気が高かったということです。

戦前までの日本において、
そこまで絶大な人気を博していた神功皇后とは
一体どんなことを成し遂げた方だったのでしょうか?

尋常小学校の教科書を紐解いて、調べてみましょう^O^


***********************

第四 神功皇后
「尋常小學国史 上巻 昭和初期セット」より)

仲哀天皇の皇后を、神功皇后と申し上げる。
皇后は御生まれつきお賢く、
またをゝしい(雄々しい)御方であつた。

天皇の御代に熊襲がまたそむいたので、
天皇は皇后と御いつしよに九州へ下つて、
これをお討ちになつたが、
まだよくしづまらないうちに、おかくれになつた。

この頃、朝鮮には新羅(しらぎ)・百済(くだら)・
高麗(こま)
の三國があつて、
これを三韓(さんかん)といつた。
中でも、新羅は一ばんわが國に近くて、
その勢はたいそう強かつた。

神功皇后1.jpg

それで熊襲がたびたびそむくのは、
新羅がこれを助けるためであるから、
新羅を従へたなら、熊襲はしぜんと平らぐであらうと、
皇后はお考へになり
武内宿禰(たけうちのすくね)と御相談になつて、
御みづから兵をひきゐて新羅をお討ちになることになつた。
時に紀元八百六十年である。


神功皇后2.jpg

(神功皇后がはるかに新羅の方を御らんになつた)

皇后は、舟軍(ふないくさ)をひきゐて、
對馬にお渡りになり、

それから新羅におし寄せられた。

軍船(いくさぶね)は海にみちみちて、
その御勢はたいそう盛であつたから、
新羅王は非常に恐れて、
「われは、日頃東の方に
日本という神国(しんこく)があつて、

天皇と申す御方がいらつしやると聞いてゐる。
今、攻めて来たのは、
きつと日本の神兵にちがひない。

さうとすれば、どうしてふせぐことが出来よう。」
といつて、すぐ白旗(しらはた)をあげて降参し、
皇后の御前(ごぜん)に来て、
「たとひ太陽が西から出、

川の水がさかさまに流れるやうなことがあつても、
決して毎年の貢はおこたりません。」
とおちかい申しあげた。

ほどなく皇后は御凱旋になつたが、
その後、百済・高麗の二國も
また
わが國に従つた。


これから、朝鮮も朝廷の
御威徳(ごいとく)によくなびいたので、

熊襲もしぜんにしづまつた。

また十五代應神(おうじん)天皇の御代に、

王仁(わに)という学者などが百済から来て学問を伝え、
機織や鍛冶などの職人もつぎつぎに渡つて来て、
これらの人々によつて、わが國はますます開けた。
これは、全く神功皇后の御てがらによるものである。

***********************

なんせ、皇后というお立場であられますから
「朝廷にたてつく熊襲をどうにか鎮めたい」
お悩みになられていたお気持ちは分かりますが、
そこで夫君の仲哀天皇とご一緒に現地に出向かれて
自ら熊襲を討ちとられた!というあたりで既に
ものすごい頼もしさがムンムン漂っています(ΘДΘ)b

その後「ふむふむ。新羅が熊襲を裏で操っているのね。
よっしゃ!私が新羅に行って話をつけてくるわ(`・ω・´)」
と、またまた自ら出向かれて海を渡られ、船の大群を見せつけ
結果的に新羅を無血開城させてしまったのですから
やることなすことスケールが大きくて、笑ってしまいます。

さて、そんな神功皇后は、朝鮮半島に渡られる際に
仲哀天皇のお子様(のちの応神天皇)を
身ごもっていらっしゃったことは有名なお話です。
しかし、ときは戦乱の真最中!
四方八方から危険が差し迫っていたことから神功皇后は、
神のお告げによって願掛けをした石を
さらしでお腹に巻きつけて冷やし、
出産の時期を遅らせたいとお祈りしたところ
みごとその願いが叶ったそうです…って、やっぱり、
どのエピソードをとっても常人離れしてますよね…煤iΘДΘ)

だって、そもそもがですよ?
最愛の伴侶を戦場で突然失った、
若き未亡人であり、臨月の妊婦でもありながら!
なぜか、国を代表する重責をヨイショと背負って
外国と交渉するために、命がけで船に乗って!
敵も味方も血を流すことなく、作戦に成功して!
帰国の途中で皇子(後の応神天皇)を
無事出産したわけですから!

もしも当時、2chがあったら…

「神功皇后の最強伝説について語るスレwwwww」

「【画像あり】神功皇后が熊襲にとどめを刺した
決定的瞬間をうPする【やや閲覧注意】」

「神功皇后とご一緒に新羅征伐に行ってきたんだが」

などなどの興味深いスレッドが乱立して
大変なことになりそうです(いい意味で)\(^o^)/

…というのはまあ、冗談ですが(笑)
そうはいっても国の一大事を人任せにせず、自ら動いて
追従する人々の士気を高めたことはおそらく真実でありましょう。
さらに、有言実行のスタイルでみごとに結果を出して
日本の威信をおおいに高めていったのですから、
神功皇后はその賢さや強さにおいて本当に定評があり、
人望も厚く、人々の心のよりどころだったのではと想像します。

そして、神功皇后がおかくれになられてから
かれこれ二千年近く経つわけですが、
こんな風にエピソードをちょっと掘り下げただけでも
その大きなパワーの片鱗がキラキラと光り出して
人を突き動かしたり、盛り上げてしまうのですから
やはり、すごい女性だったのだろうなあ!と思います^^

神功皇后は、住吉三神の1柱として、
そして応神天皇とともに八幡三神の1柱として
全国各地の神社で祀られています*^^*

もし、皆様のお住まいのお近くに
神功皇后をお祀りした神社があるようでしたら、
お散歩がてらお参りに行かれるのもよいかもしれません。
神功皇后のような気合と功績を持つお方でしたら、
三韓征伐あらため反日勢力駆逐&日韓断交の悲願(笑)を
がっちりサポートしてくださるのではと思います(笑)(笑)







posted by はなうた at 19:13| Comment(0) | 尋常小学校の国史を学ぼう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

尋常小学校の国史を学ぶ〜「第三 日本武尊(やまとたけるのみこと)」

今回は久しぶりに、
尋常小学校の教科書シリーズです^^

さてさて、ブログ主の中では、このところ
田下昌明先生への尊敬の思いが
どんどん大きくなっておりまして…

「田下先生が日ごろ心がけておられるような
『真っ当な日本人
として私も生きたい」

という気持ちがとても強くなってきました。

それで最近、先生のご著書を
できる限り集めて読み進めているのですが、
ご著書の中に繰り返し

「子供達には偉人伝を読ませるとよい」

と書かれていることが、ずっと気になっていました。

先生には以前、はなうたの寺子屋の講演会
子育てのお話をしていただきましたが
そのときもやっぱり「子供達には偉人伝を…」と
おっしゃっていたのです。

ブログ主が思うに、偉人伝とは
子供達が将来自分がなりたいイメージを
模索し構築する上でもすぐれた教材ですが、
日本の偉人伝をあまり読まずに成長してきた
私達成人日本人にとっても、
きっとよい影響やヒントをもたらしてくれるのでは、
と考えています。

幸いにして、これまで拙ブログでご紹介してきた
尋常小学校の国史の教科書は、
神話時代から近代までに活躍した人物達の生涯を
一人ひとり紐解く形で構成されています。いわば、
ちょっとした偉人伝集のような作りになっているのです。

そして尋常小学校の教科書は、国史も国語も修身も
いずれも紹介しがいのある優れた教材なのですが、
まんべんなくのんびり3教科をご紹介していると
時間がいくらあっても足りないし、終わらない!!
ということに最近、気がつきました^^;

なのでこれから先しばらくの間は
国史に絞ってご紹介することにしました。

日本の歴史や人物を断片的にしか知らない子供達
(もしくは大人達)に対して、私達が自分の言葉で

「この人にはこういう功績があって、
こんなところが素晴らしかったんだよ」


と説明できるようになれれば、
それは自分自身のためにもなるし
世の中のためにもなる、素敵なことだ


と思うのですが、いかがでしょうか(*´▽`*)

私達日本人が、祖国の偉人達に親しみ、感動し、
彼らの足跡から今の自分達に必要な教訓を得て
ますます自信と幸せに満ちた人生を送れるように…
との思いを込めて、ご紹介していきたいと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げますm( )m
(ちなみにこれまでの国史の記事は
こちらでまとめて読むことができます^^)


さて、日本で初めて「天皇」として即位されたのは
皆様ご存知のとおり神武天皇であらせられますが、
今回のお話は、神武天皇から数えて十二代目の
景行(けいこう)天皇の御代を生きた
あるスーパースターのお話であります(#^^#)


*********************


第三 日本武尊(やまとたけるのみこと)
(「尋常小學国史 上巻 昭和初期セット」より)

神武天皇が大和におうつりになつて後は、
天皇の御威光(ごいこう)は
おひおひ四方に
ひろがつていつた。
けれども、都から遠くはなれた東西の國々には、
なほわるものが大勢ゐて人民を苦しめてゐた。

第十二代景行(けいこう)天皇の御代(みよ)になつて、
九州の南の方に住んでゐる熊襲
(くまそ)がそむいたので、天皇は、

御子の小碓尊(おうすのみこと)
これをお討たせになつた。

尊は、御生まれつきくわつぱつ(※活発)で、
その上御力もたいそう強い御方であつたから、
この頃まだ十六の少年でいらつしやつたが、
おほせを受けると、すぐ九州へお出かけになつた。

熊襲のかしらの川上(かわかみ)のたけるは、
かうしたことがあらうとは夢にも知らず、
大勢のものといつしよに酒を飲んで楽しんでゐた。

尊は、御髪(おんかみ)をとき、
少女の御すがたになつて、たけるに近づき、
劔をぬいてその胸をお刺しとほしになつた。

不意をうたれたたけるは、たいへん驚いて、

「なんとお強いことでせう。
あなたは實(じつ)に日本一の強い御方です。
これからは、日本武(やまとたける)と
御名のりなされよ。」

と申し上げて、息が絶えた。
尊は、そこで御名をお改めになり、
めでたく大和にお帰りになつた。


<日本武尊御東征図>

2015051219562600.jpg

その後、東の國の蝦夷がそむいたので、
天皇は
また尊にこれを
お討たせになることになつた。


尊は、いさみいさんで都をお立ちになり、

まづ伊勢に行つて皇大神宮に参詣(さんけい)し、
天叢雲剣をいただいて、東の國へお向ひになつた。

尊が駿河(するが)の国におつきになつた時、
その地のわるものどもは、
鹿狩(しかがり)をするからと、尊をだまして、
廣(ひろ)い野原におさそひした。
さうして、急に草をやきたてて、
尊を害(がい)しようとはかつた。

<日本武尊が御劔をぬいて草を薙ぎはらひなさつた>
2015051219560100.jpg

尊は、天叢雲剣をぬいて
あたりの草を薙ぎはらひ、
大ひにおふせぎになつたので、
わるものどもは、かへつて、
自分のつけた火にやかれて、
すつかりほろぼされてしまった。
これから、この御劔を
草薙劔(くさなぎのつるぎ)と
申しあげることとなつた。

尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、
蝦夷どもは、御勢(おんいきおい)に恐れて、
弓矢をすてて降参した。

かやうにして、尊は國々をお平げになつたが、
都へお帰りになる途中、御病のため、
とうとうおなくなりになつた。

尊はたふとい御身でいらつしやるのに、
つねづね兵士といつしよに
難儀(なんぎ)をおしのびになり、
少年の御時から、西に東にわるものどもを
お討ちになつて、少しも御身を
おやすめになるおひまがなかつた。
さうして、天皇の御位におつきにならぬうちに、
おなくなりになつたのである。

けれども、尊の御てがらにより、
遠いところまで平いで、
世の中はたいそうおだやかになつた。
尊の御子が、後(のち)になつて、
天皇の御位におつきになつた。
この御方を第十四代仲哀(ちゆうあい)天皇
申しあげる。

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さて、尋常小学校の教科書の地図を改めて見ると、
日本武尊の遠征の範囲は、北は遠く
現在の福島県あたりにまで及んでいたようです。

2015051219562600.jpg

また、熊襲は南九州地方の豪族だったとのことで、
彼は、南は今の鹿児島県あたりまで
足を延ばしていたことが分かります。

国家統一のために、西へ東へと駆け巡った日本武尊。
彼の伝説や足跡は、この現代の日本においても
さまざまな場所で目にすることができます^^

たとえば、ブログ主がかつて住んでいた
東京のとある町角には、日本武尊が
旅の途中で休んだ地であることを記念して
とても立派な神社が建てられていました。
でも、ちょっとお休みしただけで喜ばれ、尊ばれて
あげくのはてに神社まで建てられてしまうとは、
よくよく考えると滅多にないようなすごいことです。

日本武尊とは一体どのような人だったのだろう、
当時から既に、よほどの有力者とか人気者だったのか…
と、いろいろな想像が膨らんできますね^^


そんな、古代のスーパースターとも言える日本武尊ですが、
彼の旅の始まりのきっかけはとてもシンプルなものでした。
それは、彼の父君であった景行天皇の発した
「九州の熊襲を討ってこい」という言葉だったのです。
景行天皇は、当時16歳だった我が子に向かって
「この奈良県から、九州地方へ旅に出なさい。
そして、あの土地の荒くれ者を鎮めてきなさい」
という、なんとも大変なミッションを下したのでした。

まだ年端もいかぬ子供が、親の命で見知らぬ土地に赴き、
そこで自分の命をかけて敵対勢力と戦うということは、
現代の私達にはなかなか考えにくい状況だと思いますが、
それでも、彼はそのミッションをクリアしました。

さらにその後も、父君から次々と繰り出される指令を
ひたすら受け続け、文字通り「命が尽きるその瞬間まで
ミッションの実現に向けて動き続けた」のです。

日本武尊の縦横無尽の活躍ぶりは、最終的には
国家統一に大きく寄与したわけですが、
「なぜ彼は、そんな大変なことを
次々成し遂げることができたのだろう?」

と、ブログ主は考えずにはいられませんでした。


日本武尊という人物は、
上の教科書の抜粋からも読み取れるように、決して単に
親に従順なだけの素朴な少年ではありませんでした。

彼は、自身の中性的な見た目を活かして
女装して敵陣に忍び込み、相手を油断させた上で
大胆にも敵の大将の首を取ってしまいました。
また、上の文章には描かれていませんが、
別の敵と対峙する場面においても、
彼の巧妙で策略家な一面や、
淡々とした命の奪い方が描写されてます。
そういうところは、読んでいるだけでも
少々ヒヤリとするようなくだりです。

彼のように冷静で肝が据わっていて、
現実を見極める力をもった人間は
ただ「親に命令されたから」という理由だけでは
本気で動かない気がするのです。
もし与えられた任務が意に添わないものであれば、
途中で逃げることだってできたはずでした。
けれど、彼がそうしなかった理由はきっとただ一つで

「自分の親である景行天皇を尊敬し、
その仕事や夢を誇りに思っていた」

からではないか、とブログ主は推測しています。

自分の親を心底から敬い、親の仕事や夢
(=国家の統一と平定)を誇りに思ったからこそ、
彼は、たとえ故郷である大和に全く帰れず
知らない土地に延々と飛ばされ続けても(汗)
決して途中でミッションを投げ出すことなく、
父君の悲願達成に貢献し続けたのではないでしょうか。

それは、本当にすごい親子関係だと思うのです。
尊敬する子の方も、尊敬される親の方も
命がけで真剣だったのだろう、とブログ主は考えています。


そして、振り返って現代に目を転じますと、
神武天皇や景行天皇、そして日本武尊へと受け継がれた
国家に対する命がけの真剣な思いは、
今上陛下や秋篠宮殿下に
みごとに継承されているのではないかと感じています。

陛下と殿下.jpg

皇紀2675年もの長きに渡って、皇統が続いている。

そのことだけでも、今のこの世界においては
「奇跡の国」とも言える私達の国・日本ですが、
その上さらに、国家を思い、国民を思い、
命懸けで働いてくださるお二方をいただいていることが
ブログ主としては本当にありがたい気持ちでいっぱいです。

だってねぇ、皆様…いわゆる「お隣の国々」を
どうぞご覧くださいませ…(*´Д`)〜3

台湾の李登輝元総統は本当に立派な方だと思いますが、
それ以外のお隣の国々の現役統治者の方々ときたら…
自分のことしか考えていないという段階を通り越して
もはや自分のことすらまともに考えられない有り様です。

その一方で、私達の大切な今上陛下や皇后陛下や、
秋篠宮家の方々や常陸宮同妃両殿下、
そして信子妃殿下のまなざしはいつも温かく
私達国民に向けられていますかわいい
皆様方は、もともとのお人柄も
もちろんご立派であるに違いないと思いますが、
皆様方の温かいまなざしの奥深くには

「皇統を守り続けて来た人達への
感謝と尊敬のお気持ち」


が芯として備わっておられるのでは、と私は想像しています。
そういった芯を大切になさっているからこそ、
皆様方は大変なお仕事をいつも真摯に引き受けられて
かつ、国民に優しい笑顔を向けてくださっていると思うのです。

気の遠くなるような長い歴史の中で培われた伝統と、
そこに流れる思いとを受け継ぐ人達のすごさを思うと、
自分は微力ながらそういう方々をお支えしたい、
この方々が愛する日本の国の人として
まっとうに生きていきたいなあ、と思うのです。
皆様は、いかがでしょうか*^^*


日本古代史のスーパースター・日本武尊の人生は
謎に包まれているということで、
昔からさまざまな説が出て盛り上がっているようですが、
私はこれを、一人の若者の人生の記録として受け止め、
その行動や思いのすごさを心に留めて
励みにしていきたいと思っています。



posted by はなうた at 20:52| Comment(0) | 尋常小学校の国史を学ぼう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする