2016年05月22日

郷土や国について、思うことが多かった1日

ご無沙汰しています。

今日は久しぶりに「護国」な1日だったので、
メモ的に記事をアップしておきます。

まず、コーチャンフォー旭川店に行ってきました。
レジのそばの新刊本のコーナーに、こんな風に積んでありましたよ♪
「余命3年時事日記」のシリーズ3冊が揃い踏み!

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先日、余命記事の中でオレンジチョコさんという方が
旭川の余命本取り扱いについての書店状況を詳しくレポートしてくださっていて
うずうずして見に行ったのでした。
ありがとう、オレンジチョコさん。ありがとう、コーチャンフォー。
今度から、欲しい本はコーチャンフォーで買うようにします。

ちなみに私、恥ずかしながらコーチャンフォー旭川店のことを
今まで全然分かっていなくて、
あの店構えを見ただけで「何だろうここ、パチ屋かな」と思って
今日の今日まで完全にスルーしていたのです。
ごめんなさいコーチャンフォー。全部パチ屋が悪いですw

それから今日は、旭川市博物館でやっていたこの企画展に行ってきました。
「明治・大正の旭川 街のおこりと軍都の成り立ち」

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とあるところでこの企画展の情報を知って、たまたま今日行ったら
今日はちょうど博物館の学芸員さんが解説をしてくれる日で、
しかも解説の15分前に会場に入ったという絶妙なタイミングで、
おかげさまで解説を聞きながら展示を見ることができました(人)

さて、このブログを長く読んでくださっている方なら
既にお分かりのことかと思いますが、
私は、思い込みも気性も結構激しいところのある人間ですので
「もし、旭川のことを変な風に言っているような展示だったら許さない」
と、どす赤黒い怒りのオーラを微妙に出しながら見に行ったのですが(笑)

旭川市博物館は、あの異様なほどにアイヌ☆マンセーな常設展はともかく、
今回の企画展では、独特の面白い資料が何点かありました。たとえば、
末広地区の農家の方が描かれた開拓の絵巻物の複写は
ほのぼのとした味がある上に、人々の暮らしぶりが伝わってきて
とてもよいものでした。「これは、みんなに見てもらいたいな」と思いました。

また、旭川という町の発展を引っ張てきた存在が
政府→第七師団→旭川商人、と移り変わっていったこと、
さらに旭川に配置された軍人達が、内地でもえりすぐりの
文武両道のエリートだったことから、
そんな軍人達やその家族らの影響を受けて
町としての文化のレベルがおのずと高まっていったこと、
そしてそのことを受けて「札幌や函館などを中継せずとも
旭川は独自の文化を育める」という自信が旭川の人々の中で育ち
独立独歩の気風が強くなっていったことなど、
博物館の方の解説はとても興味深いものでした。
とても勉強になりましたし、行ってよかった、と思いました。

そして今日、5月22日は、
旭川が誇る偉大な軍人・加藤建夫さんの命日でしたので
加藤さんのお墓がある、愛宕墓地に行ってきました。

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私は加藤建夫ファンなので、結構ちょくちょくお参りに行っているのですが
今日はお墓の前で、加藤さんにこんなことをお話してきました。

「加藤さんや英霊の皆様が、ご自分達の大切な命をなげうってまで
ご家族と、町と、国を護ってくださったからこそ
今の時代の私達は、こうして元気に過ごして
ご飯を食べたり、仕事に行ったりすることができています。
先人達のご恩の大きさに、改めて心から感謝を申し上げます。

これから私は、皆さまが護ってくださった大事な町を、よりよくしながら
次に引き継いでいきたいなあと思っています。

ですから、私はこれから、この町の明るい面やよい面に
ひたすら焦点を当てていきます。

そして頑張っている人を見つけて「頑張っていて素敵ですね」
と応援していきます。自分と、その人と、この町のために。

そういう感じで、自分にできることを心を込めてやってまいりますので、
どうか今後ともお見守りください。
よろしくお願いします。」

そして、夕方には「笑点」を見ました。

何を隠そう私は、桂歌丸師匠の大ファンでして、関東在住時代には
「歌さんの落語をたっぷり聞きたい」という一心で
横浜のにぎわい座まで一人で見に行っていましたし
歌さんの落語をYOUTUBEやCDで聞いたり、
ご著書も、手に入るものはほぼ読んていました。

私にとって歌さんは、他の人達とは格が違う!という感じなのです。
芸が磨かれていて、綺麗なんですよね。
ぴしっと筋が通っている上に洒脱で、表情も面白くて明るくて、
いつも「すばらしい芸だなあ」と思って見とれていました。

この頃の歌さんはだいぶお痩せになって、
座っているだけでも大変そうですが、
それでも人に心配させるような隙を見せずに、
かくしゃくとしてらして、ユーモアもあって、頭の回転も速くて、
本当に粋な方だなあと改めて惚れ惚れしました。

そして余談ですが、昔、とある若手落語家の方と
お話する機会があり、その方がふざけ半分で
「歌丸師匠は右翼ですから(笑)」とおっしゃったことがありました。
その当時はまだお花畑でしたので
「へー、そうなんですか(笑)」と笑いながら聞き流しましたが、今にして思えば
歌さんのあのきちっとした感じ、清潔感があり洗練された身のこなし、
「よいものはよい、悪いものは悪い」とスパッツと言える聡明さは
いかにもまっとうな愛国者のものです。
それに、歌さんなら、天皇皇后両陛下のことも当然のごとく敬っておられそう…
皇室の意味とありがたみをちゃんと分かっている人は、
立派で素敵な人が多いなあ、と思うのです。
私の中では、噺家と言えば歌さんがオールタイムベストです。
歌さんフォーエバーです。永遠に大好きです。


さて、今日は満月なので、この曲を聴きたくなりました。



SU-METALの歌声は「日本」そのものですよね。
彼女の唄う「君が代」を、いつか聞いてみたいですね。きっと素晴らしいと思います。


posted by はなうた at 20:36| Comment(0) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

旭川市の教育大綱案に意見書を送ってみました

本日2本目の記事です〜。

先日の記事で言及した件について、
自分なりに意見書を書いてみました。
以下に自分が書いた全文を転載します。

旭川市内の人にも、市外の人にも、
読んでいただければ大変嬉しいです。
私が思うに、人間の根っこをつくるのは、
異文化を学ぶことよりも何よりも
自分のルーツをめぐる歴史や文化を知り、
先人達に尊敬と感謝の気持ちを持つことだと思うので。

その大切さは、何度でも誰にでも、一生懸命に伝えたいです。


それでは以下に転載します。

*******************

「旭川市教育大綱(案)について」

私は、つい最近まで、日本という国は
近隣諸国に悪いことをした恥ずべき国であり、
また現代においては何事においても猿まねばかりする、
小さくてつまらない国だと思い込んできました。
まさか日本という国が、世界一長く続いている
尊い国家であるということを、
考えてもみませんでしたし調べようともしませんでした。

また、俗に言う太平洋戦争(正式に言えば大東亜戦争)が、
日本が他国を「侵略」するための戦争ではなく、
むしろ自国を護る「自衛」のための戦争であったということ、
そして、アジア諸国を欧米列強による植民地支配から
解放するという目的を掲げた戦争であったことも、
まったく知ろうともしませんでした。

私は、国立大学の経済学部を卒業しました。
小学校の頃から、先生達の言うことを聞いて
一生懸命勉強してきましたが、勉強すればするほど、
自虐史観や左翼寄りの考え方ばかりが身に付き、
気がつけば自尊心も愛国心も
ほとんど持たない大人になっていました。

そして私は、この旭川という自分の生まれ育った町を、
まったくよい町だとは思っていませんでした。
小中高を通して、学校では屯田兵のことを
ほとんど学びませんでした。
彼ら開拓者たちが、命が削れるほどの苦労をして
密林のような土地を切り拓き、米や野菜や動物を育て、
厳しい寒さに耐えながら町をつくり発展させていったことを、
学校の先生達は誰も教えてはくれませんでした。

また教室では、上兵村や下兵村の出身の友達が
「田舎くさい」とからかわれていました。
開拓者達の歴史を知らず、
先人達に尊敬の念を持つ教育がなされていなかったので、
そういう風に育ってしまうのは致し方なかったかもしれません。
とはいえそれは、今振り返っても情けなく悲しいことです。

このたび発表された教育大綱案では、
「次代の担い手が生き生きと学ぶ教育」や
「子供の成長を支える環境づくり」を掲げています。
素晴らしい提案ですが、自分のたどった道を振り返って考えれば、
「郷土愛」や「愛国心」の育成につながる適切な歴史教育なくしては、
生き生きと学ぶことも成長することも非常に難しいだろうと感じています。

そして近年、旭川市がもっとも力を注いでいるように見えるのは、
おそらく誰がどう考えても「アイヌ文化の普及」でしょう。
たとえば旭川市の博物館では、常設展の9割がアイヌ関連のものであり、
開拓者の歴史の遺物は片隅に押しやられて
あたかも辱めを受けているかのようです。
館内のイベントも、アイヌ関連のものの割合が非常に高いようです。

また美術館は道立ですが、美術館のスケジュールなどを眺めていると、
やはりアイヌに傾倒している印象を受けます。

異文化を学ぶことで得られるものは確かにあります。
ただしその前提には、人間の基礎となる、自らのルーツを
しっかり学ぶことが必要不可欠です。

旭川市は、屯田兵とその後続の開拓民達が
一生懸命に切り拓いた町です。
そして、私達旭川市民の多くは、屯田兵と開拓民の子孫です。
私達旭川市民のほとんどは、アイヌの子孫ではありません。
自分達の直接の祖先や先人達の歴史や文化を知り、
感謝と尊敬の気持ちを持つことなしに、
自分のまちを愛し育める健やかな人間になれるはずがありません。

教育大綱案の9P目の「施策2」には、
「アイヌ文化や郷土芸能など,地域の文化の保存や
伝承に努めるとともに,それらの活用や魅力の発信等を進めるなど,
郷土愛を育む取組も推進します。」と書かれています。
私が考えるに、この場で一番に挙げられるべきは
「アイヌ文化」ではなく「郷土芸能」の方です。
そして「郷土芸能」と十把一絡げにまとめるのではなく、
全国各地から移り住んできた人達が
育んで受け継いできたさまざまな芸能について、
きちんと固有名詞を挙げて言及してほしいと願います。

繰り返しますが、旭川は、アイヌ主体の町ではありません。
旭川は、私達の3〜4代前の直接の祖先である
屯田兵と開拓民が一生懸命切り拓き、
私達の祖父母がその後を受け継いで発展させてきた町です。
どうかそのことをきちんと打ち出してください。
アイヌ文化に偏重している現状の教育大綱案を見直して、
屯田兵とその後続の開拓民や、
戦後の旭川市民の歴史文化が学べるようにしてください。
よろしくお願いします。

*******************

posted by はなうた at 21:36| Comment(0) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月11日

旭川市の歴史教育の現状と方向性について考えてみました

という見出しを見つけました。

それで「おお、そういえば私は去年の夏ごろに
旭川の教科書の展示会に行って、
思いのたけをアンケートに猛然と書きこんできたよね。
結局、どこの会社の教科書が選ばれたのかな?」

と思ってリンク先をクリックして読んだところ、
私が「おおいに問題ありだよな〜」と感じていた
東京書籍発行の歴史教科書が、
まさに旭川市立の中学校の歴史教科書として
採択されたことを知りました。

旭川市の教科書選定委員会の皆さーん。
私の書いたあのアンケート、
本当にちゃんと読んでいただけたのでしょうか?

ということで、まず以下に、
東京書籍(東書)の歴史教科書が
旭川市で採択された理由について抜粋します。
なお太字部分は、ブログ主による強調です。

****************************

○一単位時間ごとや単元末に,歴史的事象について説明したり,話し合
 ったりするなどの言語活動が位置付けられており,学習内容の理解を
 深められる構成となっている。

○各章の導入に掲載されている年表は,第3章以降については前の章で
 学習した時代区分とつながっており,生徒が歴史の大きな流れを捉え
 て学習を進めることができるよう工夫されている。

○アイヌの人々の歴史等について,各時代と関連させたり,特設ページ
 を設けたりするなど,理解を深めるよう工夫されている。

****************************


旭川市の教育関連の方々は、どうにもこうにも
アイヌ文化が大好きな方が本当に多いのだなあ、と改めて感じました。
旭川の博物館のイベントガイド美術館の催し物を見ても、
ものすごくはりきってアイヌ文化を前面に打ち出している印象を受けます。


また、同じく旭川市のHPにて
旭川市教育大綱(案)」に対する意見の募集」という項目を見つけて、
「どれどれ、どんなことが書かれているのかな」とリンク先を開いたら
やっぱりアイヌ文化の普及に力を入れていきたい旨が書かれていました〜。


*******************

旭川市教育大綱(案)

p9 

施策2 個性豊かな文化の振興

文化芸術は,感性を豊かにし,暮らしに潤いと安らぎをもたらすとともに,
人々に感動や生きる力を与えるものです。また,活発な文化芸術活動は,地
域への愛着と誇りを育み,活力ある地域社会の形成に役立つものです。
このため,文化芸術活動への支援や文化芸術に接する機会の充実,関連施
設の機能充実などを行いながら,本市ならではの文化の特色や北国らしさな
どの特長を生かした,多様で個性豊かな文化の振興を図ります。
また,アイヌ文化や郷土芸能など,地域の文化の保存や伝承に努めるとと
もに,それらの活用や魅力の発信等を進めるなど,郷土愛を育む取組も推進
します。

*******************

どこからどう見ても、こう、しれっと、
アイヌ関連のイベントを積極的に行っていくのは
私達の大正義です(キリッ 的な宣言をしていますね。

アイヌ文化を学ぶ取り組みが、
旭川市民の郷土愛を育むことにつながるのですか?
ほんとうに、そうなのでしょうか?

アイヌ文化よりも何よりも、
屯田兵やその後続の開拓農民達の歴史を知ることこそ
旭川市民が最初に学び、また軸とすべきことだと私は考えてます。





この文言を裏付けにして、
旭川市民の納めた税金をつぎ込んで、
旭川市の歴史的に最重要だとは到底思えない
アイヌ関連の各種事業に力を注いでいきたい!と主張するとは、
まともな旭川市民に向けて書かれたものだとは到底思えません。

そして、旭川において地域の文化の筆頭として「アイヌ文化」を挙げ、
「郷土芸能」は二の次になっているという、この記述についてですが、
その「郷土芸能」とは具体的に何のことを指しているのでしょうね。
なぜ郷土の芸能を、十把ひとからげよろしく取り扱うのでしょうか。

旭川市内の各地区には、開拓民のご先祖様達が持ち込んだ
独特の歴史や文化があります。
それらは細々とですが、現在でも大切に守られてきているはずです。
直接の祖先であるご先祖様達の、
そういう文化を保存し伝承することへの言及は二の次にして、
なぜ私たち旭川市民の直接の祖先ではないアイヌ文化の普及に
旭川市の教育委員会は血道を上げているのでしょうか。


少し話は脱線しますが、私は昔、
ハワイのフラ(ダンス)を熱心に学んでいた時期がありました。
そしてあるとき、フラの雑誌のインタビュー記事で
「マスター・オブ・フラ」と名高いジョージ・ナオペというおじいさん
(もう亡くなりました)が特集で取り上げられているのを読みました。

その記事のインタビュアーが、
「熱心にハワイ文化を学んでいる日本のフラガールに
何かコメントをお願いします」とリクエストしたとき、
ナオペおじいさんはひと言、こう言いました。

「自分の国の文化をもっと学びなさい」

インタビュアーからこの手の質問をされた際には、
たいての著名なクムフラ(フラ教師)達は
「ハワイの文化を学んでくれてありがとう。
日本のフラガール達は熱心でお行儀がよくて、素晴らしいよね」
というようなリップサービスと応援メッセージを織り交ぜて発したものでした。
ですから、ナオペさんのそのコメントを読んだ時には
明らかに異質な、それでいてぞくっとする何かを感じ、
理由ははっきり分からないなりに、彼の言葉がずっと引っかかっていました。

今にして思えば、ナオペおじいさんは信頼できる愛情深い方でした。
今では私はまったくフラをやっていませんし、
またこの先やる予定もありませんが、
ナオペおじいさんのこの言葉に出合えたことは
フラを学んで得られた最も大きな収穫の一つだったと感じています。
今でも心から尊敬できる、ありがたい人です。

さて、もし、自分の生まれ育った町や国の歴史をろくに学ぼうとせず、
異文化を知ることにばかり血道を上げているような外国人を見かけたら
「この人は、自分の文化を恥じているのかな?」
と感じる人は多いのではないでしょうか。
それとまったく同じことが、現在の旭川の文化的な催しに対して
言えるのではないかと私は思うのです。

「旭川はアイヌの町なの?
屯田兵のこととか、戦後の話は
旭川の文化的イベントではほとんど取り上げられないけれど、
旭川市民は先人達の働きをあまり評価していないのかな?」

旭川という町が、中からも外からもそんな風に思われてしまうのは、
違和感があっていやなことだなあと思います。

そしてこれは余談ですが、
この「旭川教育大綱(案)」のPDFで検索を掛けたところ
「屯田兵」という言葉も「開拓」という言葉も、
たったの一回も出てきませんでした。


どんな人達が、この教育大綱を作っているのでしょうね?
イマージンオールザピーポー。

まあ、どんな人達が作っていたにせよ、一番大事なのは、
私達が自分の気持ちや
願いを相手に表明すること

だと思うのです。

ということで…!

こちらのサイトでは、教育大綱への一般の方からの意見を募集しています。
意見はインターネットからでも送れます。
締め切りは12月15日(火)。

時間は分かりませんが、15日の17時ぐらいには
提出しておきたいなあと考えています。なお要領を見ると、

「お寄せいただいた御意見は公表します。
(氏名・住所等の個人情報は除きます。)」

とのことでしたので、私とs智恵は、旭川を愛する人達に読んでもらって
いろいろ考えてもらえるきっかけになりそうなことを書きたいです。
少なくとも、アイヌに重きを置いた教育姿勢を見直してほしいし、
屯田兵をはじめとする、旭川市民の直接の祖先の歴史や文化を
もっと重んじる方向性を打ち出してほしい、ということを伝えたいです。

この記事を読んでいらっしゃる、旭川市在住の皆さん。
そして、旭川にご縁のある皆さん。
どうか皆さんも、それぞれのご意見を旭川市に届けていただけませんか。

その際は、私のブログの記事を引用していただいてもかまいません。
また、難しいことや長い文章を書く必要もないと思います。

自分が大切に思っている町を、当たり前に大切にして、
自分のご先祖様達を誇りに思って、感謝する。
旭川には、そんなごく普通の素敵な町であってほしいのです。
ご一緒に、動いていただけましたら本当に嬉しいです。

ご検討よろしくお願いしますm( )m
お時間のある方には、来週15日までに、
一筆でも書いて送っていただけましたら幸いです。









posted by はなうた at 00:00| Comment(1) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月10日

適切な歴史教育により、「北海道人」や「日本人」としての根っこを得た子供達の感想文(後編)

こんばんは〜。

先日のコメントで、あるもさんが
北海道産のお米「ゆめぴりか」を召し上がっている、
というお話をされていて、嬉しくなりました。
実は私も「ゆめぴりか」派なのです。

「ゆめぴりか」はなんといっても「もち米かな?」と思うほど
つやと粘りがあって、冷めても甘みがしっかりあるので、
お弁当に持って行ってもご飯の美味さがしっかり感じられる
すばらしい品種だと絶賛しています。
(ちなみに私は、お米はヘイワの超重い圧力鍋でガス炊きしています。
たまに外食で白米を食べる機会がありますが、どの店のご飯を食べても
「やっぱりうちで炊いたご飯が一番おいしい!」と頷いています(ドヤッ)

四季の移り変わりや景色が綺麗で、
水や空気が美味しい上に、
採れるお米は全国的に見ても高品質だなんて、
旭川は本当に豊かで恵まれた町ですよね…*^^*

旭川の持っている素質や魅力をもっともっと伸ばしていって、
町としてより輝かせていきたいな〜、と夢見ている今日この頃です。


さて、今回は先日の記事の続編です。
「適切な歴史教育により、
「北海道人」や「日本人」としての根っこを得た
子供達の感想文」の後編として、
中学生の子達が書いた素敵な作文をご紹介します。


本日の書籍
『旭川屯田100年史』
 編集 旭川屯田会
     100年史編集委員会
 出版 須田出版

******************************

東旭川開基100年にあたって
   旭川中学校 1年1組 ○○ ○○

「開基100年」この言葉、今だからこそ
一言で言うことができる言葉です。

明治23年この地に旭川がおかれ、
次いで明治25年から
屯田兵の人達の努力と
苦労が100歳の東旭川となって

現在ここにあるのです。

私は、13歳。まだ13年間しかこの旭川を知りません。

私の知る旭川、この地にしてみれば、
スタートが見える、
ほんの少しにすぎないのかもしれません。

しかし、そんな東旭川開基100年も、
次代へ伝えるための
開基100年にすぎないのです。
この旭川が誕生して100年。この100年間には
時代の進歩と共にさまざまな発展があったのです。
私が知るのは確実に、今のことが多いはずです。

私には、祖父と祖母がいます。
時々、昔の畑仕事のことや
家畜の話を聞きます。
話の内容は、手順、農具や、
その頃困ったことなどで、
今と比較してみると、昔は、
手作業が多く、
電力や燃料を使うものが少なかった、

というより、なかったということがわかりました。

今なら、機械化が進み、ほとんどが、
機会や石油などを使っている。

ということがあげられるでしょう。話をきいて感じたことは
「屯田兵の人達がこの地にたどりついた時、機械もなく、
木を一本倒すのもきっと、たくさんの人達の努力があったからで、
水田や畑を造るのも、大変だったろうな」と感じました。

この旭川には「兵村記念館」があります。みなさんも1度は、
見たり、聞いたりしたことがあると思います。
私は、その兵村記念館を、1度だけ見学したことがあります。
それは、小学校の時に授業で学年全体で行った時でした。

見慣れた建物ですが、中に入ってみると、思っていたより
たくさんの写真、道具がここ東旭川の歴史を物語っていました。
中でも、開拓当時の写真と、生活の中での道具が印象に残りました。

なぜ開拓当時の写真が印象に残ったか。というとやはり、
今とはちがう、景色や背景の中で
すべて第一歩から始めていく
人の苦労が見えて、
今の旭川があるのは、この頃の人達が
木を一本一本切り倒し、
無数の荒れ地を鍬で耕してこの地を

切り拓いてくれたおかげでもあるのだなと思ったからです。

また、なぜ生活の中での道具が印象に残ったかというと、
今のような技術がなかった昔、屯田兵の人達がどのように
生活していたか。ということに興味があったからです。

現在の生活では欠かすことのできない物でも、当時には
ありませんでした。あたり前のことですが、現在の人に
「生活してみてください」というとやはり無理だと思うのです。

時代や場所によって慣れた生活もありますが、
もし、
電気のない生活をすることになると、
困ることもたくさんあると思います。

昔なら当然のことでも現在なら無理、また、逆なことでも
同じことがいえるでしょう。

このようなことは、昔から現在へ、時代と共に
発展があったことの
証拠であり、
特に印象に残った道具の理由(わけ)でもあるのです。


このように「開基100年」といっても、
多くの人達の努力があったように、
たくさんの発展もあり、
それを受け継いだ私達も大切な役目を
果たしているのです。
しかし、私達にはこれから、何年もかけて

やりとげていかなくてはいけない役目が残っています。
それは、次代へ伝えるということです。
祖先から受け継ぎ、子孫に伝える、このことこそ、私達人間の
最大の役目だと思います。

「開基100年」確かに多くの人が歩んだ足跡であり、これから200年、
300年と切り開いていかなくてはいけない道であると思います。


東旭川開基100年について
   旭川中学校 1年 ○○ ○○

平成2年になると同時に旭川市開基100年と言う言葉や字が
耳や目に入りました。今年は、旭川市の記念すべき年であることを、
誰もが知っていることです。

一口に「100年」と言うのは、実に簡単であると思います。
100年前は、まだ私たちが生まれていない、また、私の父母、
そして祖父母までも生まれていないのです。

こういった、長い年月の間には、いろいろな行事や
明暗な事があったでしょう。私たちの住んでいる東旭川には、
そのような昔の物を、大切に保管する、「旭川兵村記念館」や、
「屯田兵屋」があります。

「旭川市兵村記念館」には、屯田兵資料、1,200点。
その豊富さは全道一。「屯田兵屋」は、現存する道内唯一の
貴重な建物なのだそうです。
兵村記念館には、昔の書物や地図、お金や食器類が
使いこなされた姿で展示され、かんろく十分でした。
この、記念館などがあるからこそ、私たちは、昔の出来事がわかり、
大変良い物だと思います。

また、兵村記念館の近くにある、「ハルニレの木」は、全国で
ベスト10位に選ばれたもので、360年も、動かずに、私たち、
そして、この町を見守って来ました。
入植する時には、ササや大木があったり、食物に関しても、あわ、
大豆、小豆、とうもろこしなどの穀類などが中心だったそうです。

100年たった今、水道、電気、ガス、全ての事がなに不自由なく、
生活できるのは、昔の人々の苦労のおかげです。
私は1度、旭川のどまん中の上空から、旭川を
見下ろしてみたいと思っています。どのように見えるか、楽しみです。

旭川はとても良い所だと思います。海などの被害も与えられないし、
大きな地しんだって、めったに来ない所だからです。
旭川に生まれたのだから、この旭川で、一生暮す事を望みます。
これからも、旭川のたくさんの行事などにも参加させてもらい、
旭川のことを、今まで以上に勉強して、
旭川の役に立つことをしたいと思っています。


屯田兵について
   旭中 3年3組 ○○ ○○

旭川開基100年ということで、
この旭川を開拓した屯田兵について
調べてみようと思い、
兵村記念館へと足を運びました。

私はまず、受付の所にいたおばさんに、
屯田兵について聞こうと思い
声をかけました。すると、
「資料がないので、パンフレットだけあげますよ。」

といって集めてくれました。

家に帰ってこのパンフレットを見てみると、
記念館の中の説明しか
書いていなくて、
屯田兵のことについては、なにも書いてありませんでした。

わたしは、せっかく行ったのに、がっかりしました。
そこで、
家にあった「東旭川町史」という本を参考に調べました。

本によると、原半左ヱ門という人が100人を率いて
蝦夷地に来てから
約30年で、屯田兵として移住した戸数は
全体で7,337戸、人数は
3万911人にも及んだということです。

屯田兵応募資格は、17歳以上
25歳未満で
身長が150センチ以上の兵農の経験がある人にかぎられ、

採用された人は、愛媛、香川、京都、大分県の出身者が多く、
平民が主だった。それ以外には、特権を失ってなれない商売に失敗した
士族から採用した。そのため、営農には不利であり、殖産の実績が
挙がらなかった。
それなら、士族から採用しなくてもよいのではないだろうかと思った。

採用された人々には、「移住心得」といわれるきまりが示された。
それには、1戸に対して5人しか住めず、荷物は1戸につき8箱以内で、
屯田兵になったからには、再び帰郷できないで
北海道に骨を埋める覚悟で
なけらばならないと定められていました。
死ぬまでその家にいるのに
荷物8箱では少なすぎるような気がしました。

本を調べていくと、びっくりしたことがありました。
私たちの通っている
旭川中学校附近は密林地帯だったということです。
ここを練兵場にしていたことは、知っていたのですが密林地帯については
はっきりとは知りませんでした。よく考えてみると、だから大きな木が
たくさんあるんだなぁということがわかりました。
それにしてみると、グランドに木がないのがすごいと思いました。
屯田兵の人々が木を切りたおしたのでしょう。私が屯田兵の1人だったら、
きっとこんなつらい仕事はできないと思います。

屯田兵初期の農業は、鋤(すき)と鍬(くわ)と鎌しか与えられないで
営農しなければならないというのである。屯田兵はまず、
鍬と鎌で開墾し、そこに種子をまき、麦類を収穫した、これで初めて
営農する自信を得たのである。密林地帯を切り開いて
物を収穫できた時のよろこびはおもってもみなかったことだろう。

それからというもの農業は、いろいろな分野で発達した。
まずは上川管内の養蚕地帯として士別などがあげられた。
始めのころ密林や荒れ地だった所が、収穫できるようになるためには、
普通の努力ではいけないと思いました。
このように、屯田兵の人々のおかげで、今私たちは
幸せな生活を送っています。
屯田兵の人々に感謝しなければならないと思います。


******************************

前編の記事でご紹介した小学校の子達の感想文では、
屯田兵の人達は苦労していてすごい、よく働いていて尊敬する、
という意見が多く見られ、いじらしくて非常に微笑ましいものでした。
今回の中学生の子達の感想からも、同じ尊敬の念は伝わってきますが
「これは、さすが中学生!小学生と違うところだなあ」と私が感じたのは

「100年続いたこの町のすばらしい歴史を、
私達が200年、300年先まで伝えていく役目を担っている」

と彼らなりにしっかりと感じているところです。

郷土の歴史を学ぶことを通して感じる
「ご先祖様達が〜〜してくれてうれしい、ありがとう」

という素朴な感謝の気持ちの先には、
「自分は何をすればこのご恩のお返しができるのだろうか?」
という精神的な前進と模索・実現の段階が待っていると私は考えています。

自分なりの「ご恩返し」を見つけて実践することで、私達は本当の意味で、
愛する郷土に根を下ろし大きく成長していくことができるのではないでしょうか。

そして、人によって「ご恩返し」のバリエーションはさまざまだとは思いますが、
自分達のご先祖様や先人達の成し遂げたことについて少しずつ学び、
縁ある人達に伝えることは、誰にでもできる立派な「恩返し」であり
護国活動にもなるものです。

同時にそれは、生まれ育った町に幸せと繁栄の種をまく行為でもあると
私は考えています。

ですから、縁あってこの記事を読んでくださった方には、どうか
郷土史に触れる機会があるたびに、そこでできるだけしっかり感じて、
ご自分が感動したことや感じたことを周りの人に伝えていただきたい、
と強く願っていますm( )m

特に、旭川市内および近郊に住んでおられる方は、どうか、
子供達の作文でも何回も触れられている兵村記念館か、
もしくは北鎮記念館に実際に行ってほしいなと思います。
私は、「自分の住んでいる町のことを知らないのは恥ずかしいな、
勉強したいな」と思って2年前にこの二つの博物館を訪れたのですが、
実際に足を運んだことで、私の運命は大きく変わりました。

もし兵村記念館に行かなかったら…

東旭川という町が、実は当時から文化的に非常に優れていて
それでいて努力家の多い町だった、ということを
ほとんど知らずに生きていってしまうところでした。
自分の暮らした町に誇りを持ち、幸せを感じるという貴重な機会を
私はあの古くて大きな兵村記念館から、抱えきれないほど受け取ったのです。

また、もし北鎮記念館に行くことがなければ、
私は護国手ぬぐいを作ることすら思いつかなかったでしょうし、
手ぬぐいやハンカチを求めてくださった皆様と交流をもったり、
お目にかかる機会も決してなかったでしょう。

旭川のヒーロー・加藤建夫さんのことも知ることがなかったでしょうし、
帝国陸軍の第七師団や、現在の自衛隊の第2師団について
一生懸命調べたり考えたりすることもなかったかもしれません。
そして、駐屯地モニターになることもほぼありえなかったdしょう。

気になった場所へ、面倒でも何でもいいから自ら足を運ぶことが、
遅かれ早かれ、自分が行くべき方向へ自分を連れて行ってくれるのだと
私は感じています。

ということで、繰り返しになりますが、今回の記事をお読みになって
旭川の兵村記念館や北鎮記念館が気になるなあ、と思った方は
どうかぜひ、ご自身で行ってみてください。
ちなみに北鎮記念館では、受付で自衛官の方にガイドを頼めます
(ガイドは無料です)。
自分一人で見て回るよりも、詳しい人に案内してもらった方が
いろいろ勉強になり印象にも残るので、ぜひガイドをお薦めします。

ということで、今回の記事はここまでです!


次回の記事では、これらの記事の流れを受けつつ
現代の旭川の教育に目線を転じまして、
少しピリ辛なテーマを扱うことを予告いたします(人)
ちょっと事情があるので、なるべく早めにアップするつもりでいます。
どうぞよろしくお願いします。




posted by はなうた at 19:43| Comment(1) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月03日

適切な歴史教育により、「北海道人」や「日本人」としての根っこを得た子供達の感想文(前編)

本日は、私の愛読している書籍「旭川屯田100年史」から
屯田兵の歴史を学んだ子供達の感想文をご紹介します♪

今回は前編として、小学生の感想文を転載します。
そして次回は後編として、中学生の感想文をご紹介する予定です。

「地元の歴史」や「自分の先祖の歩み」という
教わるべきことを教わった子供達が、
教わったこととをどのように吸収・消化して成長していくものなのか、
皆様に少しでもイメージしていただけましたら幸いです。

なお、ご紹介を始める前に、2〜3点補足説明をしておきます^^

1)太字部分などの強調効果は、ブログ主によるものです。
2)作文を書いた子供達の名前は、○○などと伏せてあります。
3)本書が発行されたのは、平成3年8月14日です。
  作文に明記された学年は、その当時のものとしてお読みください。


本日の書籍
『旭川屯田100年史』
 編集 旭川屯田会
     100年史編集委員会
 出版 須田出版

******************************

「屯田兵の苦労」
   旭川小学校4年 ○○ ○○

各府県から、北海道開拓の夢をもって、
屯田兵として海をわたってきた人々、
国からの配給品を受け取りに行くにも道がなく、
そのうえ何10キロもはなれているところを
歩いていったそうです。
今の私たちの生活からは想ぞうもつかないほど
大変なことだったのでしょう。

そして、屯田兵の人たちに与えられた
兵屋とよばれた家は、大きさ・横はばが
9メートル、おくゆきが6.3メートル、
四畳半と六畳のたたみの部屋が2つ、
それに板の間があってそこには、
たて90センチメートルと150センチメートルの
炉がついているだけで、家の半分は土間という
土のままの床で、その部分は、天井もなく、
かべは板1枚、屋根はまさという、うすい板をかさねて
だんだんにはってあっただけだったそうです。

屯田兵の人たちは旭川よりあたたかい土地の人たちなのに、
炉だけでどんなにかさむかった事でしょう。

食べるものもあまりなくて、大変だったそうです。
それでも一生けん命がんばって、その仕事を
やりとげたことは本当に強い人たちだったと思います。

私たちの旭川小学校が、はじめにあった場所は、
”屯田公園”としてみんなに使われています。
屯田兵の人たちのように、私たちも夢をもって
きれいで住みやすい町東旭川になるよう
がんばりたいと思います。


むかしの生活
   旭川小4年 ○○ ○○

私はむかしから旭川に住んでいるおばあちゃんに、
むかしの生活のお話を聞かせてもらいました。

屯田に入る時は、なにも食べるものがなかったので
1年分の食料をもたせられたそうです。


森林地帯で木を切りたおし、畑、水田を作る。
これは、私たちの教科書の、「あさひかわ」にも
しゃしんでのっています。
持たせられた、オノやノコギリは、ほとんど使えきれず
大変苦労したそうです。

私のひいおじいちゃんが7歳の時、親といっしょに
入(にゅう)しょくしました。電気はなく、小屋にランプをつけて、
くらしていたそうです。食料はしお漬けの魚や漬け物です。
お水は共同井戸でした。何キロもはなれた井戸まで
毎日水をくみに行ったそうです。

初めは、アワやヒエを作りました。
冬は、ふとんにしもばしらが立ちました。
だんぼうはいろりです。
屯田に入った時は何人もの人が寒さのため、
こごえ死んでしまったそうです。

おばあちゃんが子供のころ水田は、
今とちがってじかまきでした。
水田にはところどころに木のかぶがのこっていました。
さとうがないので、ビートを植え、それをにつめて、
さとうを作りました。メンヨウを飼い、毛をかりとって
毛糸をつむいで、セーターをあんでいたそうです。

このお話を聞いて私は思いました。
ふとんにしもばしらが立つなんてびっくりしました。
それに、何キロもはなれた、井戸まで毎日歩いて、
水くみをするなんて大変だったろうなあと思いました。


東旭川の昔と今の生活
   旭川小学校5年 ○○ ○○

私のおじいちゃんは60代、おばあちゃんは50代です。
おじいちゃんおばあちゃんに昔の生活や、又は、
東旭川の様子を聞きました。

おじいちゃんの言うには、昔の事を思い出すと、
「よくやってきたなぁ」と言っていました。
おじいちゃんの時代には、この東旭川も
ほとんど開けていたそうです。

今の本町の道路には、旭山まで電車が走っていたそうです。
それでも、じゃり道で道路は今の半分ぐらいのせまい道路で
車などはなくて、歩く人と自転車ぐらいだったようです。

食べ物にしても、毎日の生活にしても丸っきりちがっていて、
3度の食事は少しの米にダイコン、イモ、カボチャなどを入れて、
おなかをふくらませていたそうです。
おやつは、バレイショやカボチャのゆでたものでした。
今は、お金を出してチョコレートのおやつです。
仕事にしても今は、きかいで何時間かで終わるけれど、
昔の時代では、人の手でやって、又は馬などで
田畑の仕事を朝早くから夜おそくまでしていたそうです。

春のかいこん時などには、くつも手ぶくろもなくて、
うす氷のはっている中をはだしで入って
田植えしたころもあったそうです。
あまりの冷たさに、何回も何回もアゼの上にあがって
足をあたためながら、仕事をしたそうです。
家の中も今はあたたかく出来ているけれど、
昔は、ねていても朝おきて見ると、ふとんのえりがしばれていて、
まっ白になっていて家の中もさむかったようです。

買い物に行くにも、今はどこまでも車で行くけど昔は、
車などはなくて3里も4里も歩いていったそうです。
本当に昔の人は大変だった事があるような気がしました。
でも、おじいちゃんの前のおじいちゃんやおばあちゃんたちは、
まだ苦労だったそうです。

今の東旭川もこんなに開けたのも、
むかしのおじいちゃんおばあちゃんたちが木をたおし
一くわ一くわ手でおこしていたから今では、
こんなりっぱなきれいな東旭川が私たちは見られるのです。
これからも、本当に私たちは、むかしのおじいちゃん
おばあちゃんのことを思って東旭川という町を大切に、
きれいな町にして行こうと思います。


東旭川の過去、現在、未来
   旭川小学校6年 ○○ ○○

ぼくのひいおじいちゃんは、
屯田兵がこの東旭川に入ってから、

村のかじ屋として四国からやってきました。
それから数えて、ぼくは、4代目です。
その間には、すごい年月がたっています。

かじ屋をやり始めたのは、屯田兵の人が入ってきて開拓してから、
こちらにきたので、屯田兵の人はすごい苦労をしているんだなぁ
と思いました。

屯田兵の人たちが入ってきた時には、まだここらへんは
ジャングル地帯だったので、木を切るにも、草をかるにも、
大変な苦労をしていたと思うし、開拓をしながら、
国を守るために、毎日練兵場でくれんしていた男の人が
いなくても、女の人やお年よりの方が、力を合わせれば、
今のようにこんなきれいな所になるんだなぁと思います。
本当に屯田兵の方は苦労を重ねて開拓をしたそうです。

食べ物も、白いご飯などほんの少ししか、食べられないなんて、
こんなに苦労しているのに、かわいそうです。
一生けん命働いた人には、それなりのお米や、いもや
野菜などをあげるべきです。本当にこういうところでも
屯田兵の人は、たえぬいたようです。
大正、昭和初期の遊びで、男子は、べいごま、チャンバラごっこ、
めんこ、めんだまとだいたいこのようなもので、
女子の遊びは、おはじき、花いちもんね、お手玉、
せっせせっせなどです。

旭川が今まで開けるまでに、鉄道がストップして
夜にげする人もいたり、米はそだたなかったりしたそうです。
それに戦争時代には、「ほしがりません、勝つまでは」となって、
おかしも店から消えるようになり、物不足になり
大変な苦労をしたようです。
物不足では、えんぴつ、けしゴム……などほとんどが
おさがりだったそうです。
でも、今はなくなったら買うで、昔のように大事にはしていません。
ぼくもそうです。
でもこれからは、そういうむだ使いをやめたいと思います。

そして、ぼくは、一度だけでいいから、屯田兵の人たちが、

開拓しているのをみてみたいし、一度でいいから、昔の屯田兵の
家でねてみたりしたいです。
これからは、開拓当時の物や古い建て物をこわさずに、
大切に保存してほしいと思います。

******************************

いかがでしたか?
皆様は、どのようにお感じになられたでしょうか。

上の作文を書いた子供達は、
自分の血の繋がった直接の祖先を含めた
先人達の苦労や功績を知ったことで、皆一様に
心の中に先人達への感謝や尊敬の気持ちを
然と広げていったことが分かります。

さらには、自分のおかれた環境が
いかに恵まれているかということに気づき、
子供達は自分の幸せを実感できるようになります。

また、先人達の恩に報いたいという温かい気持ちから、
「大きくなったら、自分の手でこの町を
よりよくしていこう」という夢や目標が芽生えます。

何よりも大切なのは、
「こんなすごいことを成し遂げたご先祖様達の
血や思いを自分は受け継いでいるのだから、

自分にも、きっといろいろなことができるはず!」
という信念や誇りが子供達の中に生まれることです。
そしてそれは、決して消えることのない炎として
子供達の人生をあかあかと照らし続けていくのです。

なんとも素晴らしいことだと思いませんか?\(ΘДΘ)/
これこそが教育の大切さであり、面白さでもあるのです!!

もし、自分の町の子供達に対して、
周りの人を大切にし、よく学び、よく働き、
優しい心を持つ大人に育ってほしい…と思うのならば、
私は学校教育においてきちんとした郷土史を
みっちり教えてあげるのが一番だと思っています。

郷土愛は家族愛の延長線上にあるものですし、
郷土愛が健やかに育っていくことで
健全な愛国心も育まれていくはずだと私は考えています。

特に、上の作文を読めば明らかなように、
北海道の開拓者達がつくりあげてきた歴史には
子供達をこれほどまでに突き動かす
インスピレーションとパワーに満ちていると感じています。

北海道に限らず、どのご家庭でも、学校でも、地域でも、
自分達のご先祖様達の成し遂げてきたことについて
もっともっと注目が集まればいいなあ、と願っています。

みんなそれぞれで、できることをコツコツ頑張りましょうね^^v

ということとで、本日はここまで〜^▽^
後半へ続きます!!

posted by はなうた at 20:15| Comment(1) | 北海道の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする