2016年03月07日

古事記の記事を見つけていただいた喜びと感謝

こんばんは。
春の陽気でぼーっとしている間に
桃の節句も過ぎていました。
おかげ様で当方は元気ですが、うっすらと眠いです。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。

さて先日、古事記の記事のシリーズで初めて
旧知のお友達以外からコメントをいただいて嬉しかったので、
今、古事記について思っていることを書いてみたくなりました。


まずは、kanonさん、素敵なコメントをお寄せくださいまして
どうもありがとうございました。

伊藤八郎先生は、谷口雅春氏が提唱された「生命の教育」を広める
「新教育者連盟」に長年関わってこられた方だそうです
(先生のご著書「古事記神話入門」の「著者略歴」欄より)。

伊藤先生は現在では、教育相談や心理カウンセリングをなさりながら
古事記研究をされて、古事記の大切さや素晴らしさについて
広める活動をしていらっしゃいます。

私は、何回か伊藤先生にお目にかかったことがありますが
明るくてユーモアがあって、さっぱりとした先生です。
そして愛国心を大切になさっている、素敵な方です。


私が本格的に古事記に興味を持ったのは、
伊藤先生が紹介してくださった谷口氏の著書を読んだことがきっかけでした。
私も「古事記と現代の予言」を読みました。名著ですよね^^それ以外では、
「古事記と日本国の世界的使命」や「限りなく日本を愛す」も求めて
今も手元に置いています。谷口氏の古事記の解釈があまりにも興味深く、
「谷口氏の古事記に対する考えを、できるだけ満遍なく知りたい」と思いましたので
自分なりに関連図書を探し出し、集中的に読み耽っていた次第でした。

谷口氏の著書には、私のような現代のネット保守が読んでも
十分に共感したり、大いに感動するような意見がたくさん書かれていると感じました。
ものすごく先見の明のあった方だったのだ…と
遅まきながら、そのすごさがようやく分かりましたし、
また谷口氏の解釈の斬新さや深さ、面白さを個人的にとても尊敬しています。

私の古事記の解釈は、そんな谷口氏や伊藤先生の解釈をベースにしつつ、
自分の感じたことを掘り下げ、あれこれ思いを巡らせた上で形にしたものでした。
ですので、ところどころ私独自の意見が混じっていますが
それはそれでいいのかな、とも感じています。

「古事記」とはおそらく磨き抜かれた鏡のようなものであり、
自分が見ている世界や見出したい真実の姿を
望みのままにくっきりと映し出してくれると考えています。

そんな古事記について、今回、自分なりに納得のいく解釈を探って
それを文章に現したことは、当初想像していたよりもずっと大変で
混沌としていて、時間のかかる作業でした。
それでも、懐深い八百万の神様達のおかげで
私は自分の見たかったものをしっかりと見ることができました。
そして、自分の見たいものを見られたことによって
なんだか私は、すっかり気が済んでしまいました(笑)

私が「あめつちのはじめのとき」から「くにうみ」まで訳して
直感的に理解したことは

「本当の神様(=根源的な神様)は
明るく、陽気で、面白い性質であり、

好奇心に満ちていて、
いろいろなことを体験したがっている」


ということでした。
そして、そういう神様の分け御霊が、ほかならぬ私達であるのだ、と。

それと、人間に対して怒りと共に罰を与えたり、気まぐれに翻弄したり、
一次的な感情のようなもので振り回したりするような神は神というか
肉体を持たない、単なるふざけた魂(笑)でしかないとも結論づけました。

本当の神様とは、どういう存在なのか。
そして自分は、どういう神様がつくった国に生まれたのか。
そのことを芯から理解したいがために
私は古事記の世界に飛び込んだのですが、
今は、古事記という神話をもった日本に生まれたことが
ただただ嬉しく、面白いと感じていますし、
ここから先は、のびのびと堂々と
自分の心のおもむくままに生きていきたい!とも思っています。

そんな風に、自分の見たいものをしっかり見られた今となっては、
神様それぞれの名前や、神様の行動の意味の謎解きなどに
前よりも興味や関心が持てなくなりました。
「くにうみ」以降の物語は、私にとっては

「あらゆることを経験したがっている神様のエネルギーが
その望みどおりにあらゆることを経験していく物語」

であり、その豊かさを楽しみ味わっているだけで十分満たされてしまいます。

そんな感じですので、kanonさんが続きを楽しみにしてくださっているのに
恐縮なのですが、私の古事記のシリーズは
「あめつち」から「くにうみ」までとなっています。
ただし自分としては、その中に、私が知りたかったすべてが入っている、
と感じていますので、もしお気に召していただけたようでしたら
繰り返しお読みいただき、味わっていただけましたら大変光栄です。



ところで、当ブログのレギュラー読者(笑)の皆様におかれましては
「あらあら、はなうたさんてば、珍しく真面目で丁寧な文章を書いている…」
とびっくりされたかもしれませんが
私にだって真面目で丁寧に文章を書きたいときがあるのですよ鉄郎…

以上、古事記シリーズの番外編でした。ではでは♪



posted by はなうた at 19:49| Comment(0) | 生きるために読む『古事記』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

(三)「くにうみ」に思うこと(2)★最後に追記あり



(三)「くにうみ」に思うこと(1)
の続きです。

それでは早速、本題に入ります。


「くにうみ」の過程で
ネガティヴな神々が生まれた理由を考える


いきなり不穏なタイトルから始めましたが(笑)
とりあえずは、今回訳す部分を眺めてみましょう。
私の動画でご紹介した訳を以下に抜粋します。


******************

伊邪那岐と伊邪那美が
お生みになられた
神のお名前は

天之狭土神
(理想の世界で、領土の狭さについて思い描く神)

次に、国之狭土神
(現象の世界で、領土の狭さを体験する神)

次に、天之狭霧神
(理想の世界で、視野の狭さについて思い描く神)

次に、国之狭霧神
(現象の世界で、視野の狭さを体験する神)

次に、天之闇戸神
(理想の世界で、心閉ざすことについて思い描く神)

次に、国之闇戸神
(現象の世界で、心閉ざすことを体験する神)

次に、大戸惑子神
(おおいに戸惑い悩む男神)

次に、大戸惑女神
(おおいに戸惑い悩む女神)

******************

上の神様の名前の漢字表記は、古事記の原文ママです。
また( )内の意味は、参考文献をもとにしてまとめたものです。
星の数ほど存在する解釈のひとつとしてお楽しみくださいm( )m

さて、上の神様の名前の意味について考える際に、私は

「天之=理想の世界(神様の世界)で、イメージを思い描くこと

「国之=現象の世界(人間の世界)で、イメージを体験すること

と定義しました。
なぜなら、古事記の「くにづくり」の大前提は

「イメージとして思い描いたことが、
リアルという形になって現れる」


ことだと捉えているからです。
ですから、「天之/国之」という神様の名前の意味を
上のように解釈してみました。

さてここで少し、「くにうみ」の前半について振り返ってみましょう。

伊邪那岐と伊邪那美の夫婦は、淡路島を筆頭として
まずは、素晴らしい国魂(国土を成す神)を生みました。

その後には、暮らしや自然界を支える神々を生みました。

かくして、ずっと安産でハッピーな感じで来ていた「くにうみ」でしたが
今回ご紹介する部分に入ったあたりから、
一気に雲行きが怪しくなるわけです。

どう怪しくなったのかと言いますと、具体的には

 「狭土」(土地・領土が狭い)
  →「窮屈、不足」という感情


 「狭霧」
(霧で覆われたように視界が狭い)
  →「不安」という感情


 「闇戸」
(暗い気持ちで心を閉ざす)
  →「落ち込み」という感情

 「大戸惑」
(大いに戸惑う)
  →「混乱」という感情

天之狭土神以前に生まれた神々の名前とは違って、
天之狭土神以降の神々の名前は
音の響き自体が不穏な雰囲気を漂わせている上に、
使っている漢字もどことなく不吉(笑)なものが並んでいます。

これまでに訳してきた、明るくて大らかな神様達の名前とは
明らかに様子が異なっているのです。

天之狭土神以前の「くにうみ」では、
伊邪那岐と伊邪那美は、素晴らしい神々や楽しげな神々を
思いのままに生んできたのです。それなのに、
ここに来て、どうしてこの二柱の夫婦神は、
ネガティヴともとれる性質の神々を生み始めたのでしょうか?

おそらく彼らは、このように考えたのではないでしょうか。

「文字どおり『何でもアリな世界』、つまり、
あらゆることを好きなだけ
体験できる世界こそが
本当の意味での豊かな世界だ。
私達がつくりたいのは、そういう世界なのだ」

と。では、「豊かな世界」というものを具体的にイメージするために、
ここで少し、海の中のことを思い浮かべてみましょう。

海の中に生息している生き物は、
綺麗で愛らしくて小さな魚だけでは、もちろんありませんよね。

ぞっとするほど大きな体をもったサメやクジラとか、
なぜこんな姿に…と絶句するほど不思議な形の深海魚や、
見た目はなんだかあやしいけど、
食べるとおいしい魚介類(笑)などもいます。
そうかと思えば、生きた化石と呼ばれる硬そうな生き物たち(笑)も
ふらーっと泳いでいたりしますね。

それから、珊瑚があって、サンゴ礁があって、海藻があって、
海底山脈や、海溝もあって…

そして、日本周辺の海には、
すばらしい資源であるメタンハイドレートが
海中の高層ビル群よろしく、
いくつも並んで高くそびえていたりするわけです^^

そんな風に、あらゆるものが何でもある!からこそ、
海はすばらしいし、母なる場所と感じられるのではないでしょうか。

そしてそれは、世界全体においても、きっと同じことが言えるのです。

「あらゆるものが何でもあるからこそ、世界はすばらしい…!」

そういう感動的な豊かさを表現したくて、
古事記に出てくる神様は「くにうみ」において
「光」に対する「影」をあえてつくり出したのではないでしょうか。
つまり、「嬉しさの対極にあるもの」や
「楽しさの対極にあるもの」を生み出すことで
世界の豊かさを増強したのではないか、と私は想像しています。

きっと、いつでも完全に満ち足りていて、円満でなごやかで、
すっきり爽やかでハッピーな感情を満喫していた神々が

「『満ち足りていない』とは、どういう感情だろう?体験したい…」

「『安心していない』とは、どういう感情だろう?体験したい

「『心がオープンではない』とは、どういう感情だろう?」

「『心が清明でなく、混乱している』とは、どういう感情だろう?」

などと思いを馳せ、自分達が満喫しているのとは違うタイプの感情も
まんべんなく体験してみたい、とひらめいたのではないでしょうか。

そして、さまざまな感情を体験するために
作り上げたヴァーチャル・ワールドこそが、
今私達が生きて、いろいろなことを味わっている
この現象の世界なのだと思います。

古今東西の、さまざまな宗教家達が

「あらゆるものは、そもそも完璧である。
悩みや苦しみとは、結局すべて幻である」

というようなことを言っていますが、
おそらくその言葉の意味するところとは

「この世界は、さまざまな感情を
まんべんなく体験するために、

神様と人間達が共同でつくりあげている
とても精巧なバーチャル・ワールドだ」

ということなのかもしれない、と私は想像しています。
以上、結構行数を割いて力説してまいりましたが、
まあ、話半分に聞いておいてください(笑)

さて「くにうみ」の物語はここから
さらに物騒なムード(笑)になってまいりますよー。


「くにうみ」の物語の中に
かつて地球で栄えた文明の姿を見る


それではここから、オカルト大好きっ子(笑)の本領を
おそるおそる発揮していきますw
まずは、先ほどの動画から現代語訳を抜粋します。


******************

次にお生みになられた神のお名前は
鳥之石楠船神
(鳥のように空を飛ぶ石の船を操る神)
とおっしゃる

またの名は 天鳥船とおっしゃる

次に、大宜都比売神
(大(あらゆる)宜都( [けつ] =穀物と蚕)の女神)

次に、火之夜藝速男神
(炎ですべてを一瞬にして焼き払う男神)
をお生みになられた 

またの名を火之R毘古神、
またの名を火之迦具土神とおっしゃる

******************

私が古事記を読むうえで参考にさせてもらっている
谷口雅春氏の著書では、上記の神々の名前は
次のように解釈されています。

 ・鳥之石楠船神(天鳥船)=飛行機またはロケット

 ・大宜都比売神=食糧の大量生産を可能にするシステム

 ・火之夜藝速男神 =核爆弾に代表される、大規模レベルで
             強力な殺傷能力を持つ兵器

これらの解釈については、個人的には全面的に賛同しています。
神々の名前に使われている漢字の雰囲気から見ても、
名前の音の響きから見ても、このように解釈するのが
一番自然だと感じております。

そして、谷口氏の解釈では、
これらの神々が生まれたくだりは
先の世界大戦を予言したものではないか、と推察しています。

なるほど、その解釈も大変興味深いものだと思うのですが、
私自身は、それとは少し違う見方をしています。

私としてはこれは、

「かつて地球に存在した
高度な文明の栄枯盛衰を
描写した箇所」

だと思っています\(^o^)/

そして、ロケットだの核兵器的な武器などをつくり出した文明が
かつて存在していたということを、
その文明の生き残りである古代の日本人が
ひっそりと口承し続けていたとか。
あるいは、古代日本人のとあるシャーマンが、
空中にゆんゆんと飛び交っていた電波(笑)の中から
情報をみごとキャッチして、神話という形に変換して残したのか。
情報の出どころや流れは、定かではありませんが…それでも!

46億年も続く長い長い地球の歴史の中で
私達の文明だけが飛びぬけて高度だった!とか、
飛行機もロケットも核兵器もつくれたのは
私達のいる、この現代だけ!と考える方が、

なんというか、狭くないですか?
無理がある気がしませんか?

なんとなく、感覚的に思いを馳せてみたら、かつて地球上には
もっと何かしらの文明があった気がしませんか?しかも、何回か!


だって、地球上ではかつて、
ムーとかアトランティスとかの割と高度な文明が
何度か栄えていたんですよね?
ただ、いずれの文明でも物質面では発展した一方で、
精神面の充実は軽視されて、人々が堕落したことで
神の逆鱗(笑)に触れてしまった、
もしくはシステム的なバランスが崩壊したことによって
それらの文明は、ことごとく
地球の表舞台から姿を消したんですよね?

ちなみに、今回の私達の文明が
地球の最期のチャレンジだと言われているそうで、
今回ダメなら地球はもうアウト〜\(^o^)/という説も、ありまぁす!

ね〜、オカルトな話はエキサイティングで面白いですよね〜(笑)

まあ、上の「今回のチャレンジでダメならアウト」説が
仮に真実だったとしても、私としてはここまで来たら
もう大丈夫なんじゃないかな〜と思っています^^
なんだかんだ言っても地球人は、今回のチャレンジを乗り切って
新しい時代に入る道を選択できているのではないでしょうか?

ちなみに新しい時代というのは、
恐怖と不安がコントロールする従来のシステムから脱却して
「自分こそが自分の世界のつくり主だったことを自覚し、
一人ひとりが自分の心の平穏を整え、それらの変容の重なりが
結果的に世界の平穏を形づくっていく時代

ということです♪

古事記のような神話を読むことで、もしかしたら既に
何回か経験してきたのかもしれない地球の文明に思いを馳せて、
その「失敗の癖(&傾向と対策)」を読み取ろうとしてみる、というのも
神話の楽しみ方の一つではないのかな、と思うのです。


苦しみは苦しみを呼び寄せ連鎖し続け、
悲しみは喜びや奇跡へと昇華する


今回ご紹介している「くにうみ」の後半部分は、
一貫して、暗く重いトーンに沈んでいます。

不足と不安、落ち込みと戸惑い。
過信、過剰、争い。
そして親殺し。最愛の者との死別。子殺し。

出てきた要素を並べると「ネガティヴのオンパレード」なのですが、
しかし、それでも古事記の世界観は決して
ネガティヴな方だけに沈み込むということはないのです。

第一に、ネガティヴな場面を描きながらも、
そのネガティヴからは私達が幸せを得る上で役に立つ、
貴重な学びを得られるようになっています。たとえば、こんな風にです。

伊邪那岐は、愛する妻・伊邪那美を失った悲しみに耐えきれず、
我が子である火之夜藝速男神(炎ですべてを一瞬にして焼き払う男神) の首を
刀で斬り落としました。その血まみれの刀からは、次のような、
恐怖と悲しみの神々が生まれました。


******************

石析神
(岩をも裂く破壊の神)

次に根析神
(木々の根をも裂く破壊の神)

次に石筒之男神
(大砲や銃など武器の男神)

甕速日神
(火薬や武器を蓄える神)

次に樋速日神
(火薬や武器を運ぶ神)

次に、建御雷之男神
(猛々しい雷ほどの大きな兵力をもつ神)
またの名は建布都神
またの名は豊布都神

闇淤加美神
(心を闇で覆い隠す女神)

次に闇御津羽神
(心を絶望と悲しみで満たす女神)

******************


伊邪那岐が怒りと憎しみにかられてとった行動は、
ネガティヴな神々を生み出す結果に繋がりました。

自分が苦しみの最中にいて、その苦しみと闘い続けている間は、

やることなすこと、さらなる苦しみを生む結果へと繋がっていきます。
これは「自分が思い描いたことを体験する」という
「くにうみ」の大前提そのままのできごとが起きたということだ、
と私は解釈しています。

さらに、「私達が『敵』と戦っている間は、敵は消えない。
むしろ、『敵』の存在感はますます強くなる一方だ」
という考え方がありますが、それとこれとは結局、同じ話だと思います。

私達が「敵と戦う」ということに焦点を当てている間は、
戦いは際限なく続いていきますし、敵はしぶとくしたたかに存在し続けます。

その状態を、好ましくない!変えたい!と心から思うのであれば、
まずは自分の心の中を探って、
本当に自分が望むものを見つけ出し、
それを素直に欲することが一番大切なのではないでしょうか。
そして、自分が欲しいと思ったものを、自分の意思で勇気をもって選択して、
そこに新たに焦点を当て直す。
そうすることで初めて、自分も状況も変わるのではないでしょうか。

伊邪那岐の物語は、「くにうみ」以降もさらに続いていきますが、
苦しみと憎しみにとらわれていた伊邪那岐が、
視点を変えて自らの望みを明確にし、行動を起こしたことで
彼はより素晴らしい神へと変容していきます。
また、彼を取り巻く状況も、彼の内面の変化に合わせるようにして
どんどん変わっていくのです。
そういう伊邪那岐の大変身は、古事記の醍醐味の一つだと私は考えていますし
その変化の過程は、今を生きる私達にも有益なヒントを与えてくれるのです。

さて、一方でその伊邪那岐の妻・伊邪那美はどうなったかといいますと、
母なる神・伊邪那美は、自らの陰部を焼き焦がす炎の子を生んだことから
命を落としてしまったわけです。

かくして、子に命を奪われた悲劇の母である伊邪那美の屍からは
嘔吐物や大便、尿が流れ出たのでした。
その光景たるや確かに、見るも無残なものだったのかもしれません。
しかし、それらのむごたらしい汚物から生まれたのは、意外にも、
豊かさと繁栄を生み出す、めでたい神々だったのです。

たとえば彼女の嘔吐物からは、
金属を生み出す神が生まれました。

そして彼女の大便からは、
陶磁器などの焼きものを生み出す神が生まれました。

さらに彼女の尿からは、
豊かな水を生み出す神が生まれました。

また、母親の命を奪い、父親にその首を切り落とされて
殺された火之迦具土神の屍からは、
山の豊かさを現す、すばらしい神々が生まれました。


******************

正鹿山津見神
(山の入り口となる坂の神)

淤縢山津見神
(山に響く音(やまびこ)の神)

奧山上津見神
(山の中心部の神)

闇山津見神
(山を覆う影の神)

志藝山津見神
(山に生い茂る草木の神)

羽山津見神
(山の端=山のふもとの神)

原山津見神
(山中に広がる野原の神)

戸山津見神
(外山=里の神)

******************


母(妻)の死、子供の死、という悲しいできごとさえも
思いがけない喜びや奇跡を生むきっかけになり得る
ということを、「くにうみ」の最後のくだりは描いているのだと思います。

他国の神話では、親殺し、子殺しに関わったものは
神の逆鱗(笑)に触れて永遠の罰を受けるところでしょうけれど、
日本の神話の古事記では、どうしてもそういう展開にはならないのです。
どこまでもマイルドでありソフトであり、希望があるのです。

古事記に出てくる神々は、耐えがたいほどの憎しみや苦しみすら
成長や繁栄のきっかけに変えてしまえるのです。
そして、耐えがたいほどの悲しみの後には、救いがあり、再生があり、
明るい可能性があるのだということを古事記は堂々と描いています。

このようなものの見方を尊いと言わずして、
何を尊いと言うべきか、と私は思っています。
古事記の生命観は、あまりにもおおらかで強く、美しいものです。


そして私は、この「くにうみ」の最後のくだりを読んでいると
東日本大震災で救出された、あるおじいさんの動画を思い出すのです。

1分30秒にも満たない短い動画ですが、
この動画の中に私達は、救いと再生の神様を見ることができます。



今では、このおじいさんは亡くなられたそうですが、
彼は、日本人が古来からずっと受け継いできた大切な「ものの見方」を
私達にしっかりと残してくれました。
そして、この「ものの見方」はまさに、おおらかで強く、美しい
古代日本の生命観を体現しているのではないでしょうか。


以上、「くにうみ」について解説してきました。

次回で一応、最終回です。

これまでのこのシリーズを通して、私は、

「神様とは明るく、楽しく、素晴らしく、万能な存在である」

ということと

「神様の分け御霊である私達は、神様と同じものでできていて、
なおかつ神様と同じ資質がある」


ということ、そして

「神様(私達)の思い描いたことが世界に反映されていく」

ということを、古事記から読み取って、文章に書き表してきました。
私は、そのことを言いたいがために、古事記を訳してきたのだなあ、と
「くにうみ」の記事を訳し終えて気がつきました。
気がついたら、気が済みました(笑)

なので、予定より早いですが、今回で最終回です。

お付き合いくださり、ありがとうございましたm( )m

「古事記」は読んだ人の数だけ、解釈が生まれる物語だと思います。
いつか、お目にかかる機会がありましたら、
どうかあなたの古事記の解釈を、私に話して聞かせてください^^

ああだこうだ、と盛り上がってお話しながら、
古事記の奥深さや面白さを、あなたと分かち合う日を夢見ています。




posted by はなうた at 21:13| Comment(0) | 生きるために読む『古事記』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

(三)「くにうみ」に思うこと(1)

皆様、ごきげんよう。

2月いっぱいまでかかると思っていた「くにうみ」の翻訳でしたが
とりあえず、動画だけですが
紀元節(建国記念日)までに公開できることになりました^^
よかったです〜!

だって、日本という国が生まれた大切な日だからこそ
「国生み」の話をしたいなあと思ったのです\(^o^)/

我が国の国土が、どのように生まれたのか…
そして私達の暮らしの中に、どれだけ神様が満ち満ちているのか…

そういうことを紀元節のこの日に、
皆さんとひしひしと感じたいなあ!と夢見ながら
自分なりに現代語に訳してみました。

解説文は、後日また改めてアップします。
遅くとも今月中には公開したいと考えています^^



あまたの解釈の一つとして、お楽しみいただけましたら幸いです。

最後に、明日は紀元節(建国記念日)です。
日本に生まれてよかったですね^^
これから先、「日本に生まれてよかった」と感じる経験を
私達はますます多く、重ねていくことと思います。
日本人としての人生を、ご一緒に謳歌しましょう。
すめらぎ、いやさか!!!


以下、2月11日11:00 追記

**************

日本の国土に宿る「国魂(くにたま)」に思いを馳せる

さて、私が「くにうみ」のくだりでまず注目したい点は、
伊邪那岐と伊邪那美が生んだのは
「国土」そのものではなく
「国魂(くにたま、国土を成す神)」だった、ということです。

一般的な「くにうみ」のイメージですと、
伊邪那岐と伊邪那美はまず最初に淡路島を生んで、
そのあと大小の様々な日本の島を立て続けに生んでいった…
ということになっていると思います。

まあ、ざっくり言えば確かにその通りではありますが、
だからといって伊邪那美が、
お腹を痛めた可愛い我が子として

固形のゴツゴツした石っぽい島々(笑)を
生んだわけではないのです。


伊邪那岐と伊邪那美は、この「くにうみ」において
それぞれの島を成して営む「神様」を生んだわけです。

しかも、それぞれの神様にはちゃんと個性と名前があるのです。
そのことは、いち日本人としてぜひ心にとどめておきたいところですね^^

さて「くにうみ」の記述をよく読んでみると、
四国も九州も基本的な構造は同じです。
一柱の神が、四つの表情(性質)を表して成り立っていることが分かります。

四国の方は、四つの性質の内、
女性的な性質が二つ(愛媛と徳島)、
男性的な性質(香川と土佐)が二つ現れていますが、
九州の方は、四つの性質すべてが男性的なものであると書かれています。

ですから四国という島はきっと、
男性性と女性性のバランスがとれていて
和気あいあいとした賑やかな雰囲気なのかなあ、と思ったりしますし、
九州は、その隅々にまで雄々しくパワフルな個性が満ちているのかな、
などと想像したりしています*^^*

その一方で、本州はといいますと、あんなにも広いのに
その性質は「くにうみ」の記述では、ただ一つのようです。
「あまつみそらとよあきつけわね」という名前からは
男神であることが推察できますが、
私のイメージでは、本州を成すその神様は
落ち着きがあって聡明で、日本の中心部をしっかり支えている
国魂の中のリーダー的存在!という感じがしています^^

まあ、こんな風に、古事記の記述から
日本の性質についてイメージを膨らませるのは
とても楽しいものなのです。

さて、伊邪那岐と伊邪那美が「国魂」の末っ子として生んだ
「両兒嶋(ふたごのしま)」につきましては、
現在に至るまでどの島なのか
はっきりと特定されていないようです。

そこで、はなうた訳ではこの両兒嶋を「竹島」と訳してみました(笑)

「両兒嶋=竹島」という説は、ネットで検索しているときに知りました。
これは、いろいろな仮説のうちの一つに過ぎないのかもしれませんが、

 ・竹島が主に男島(西島)と女島(東島)から成っていること

 ・竹島の見た感じが、なんとなく双子っぽいこと

以上の2点からシンプルに考えて、
このたび個人的に「両兒嶋」に認定しました(笑)

竹島_R.jpg

こちら↑が竹島です。どうでしょうか?
双子だといわれると、なるほどそうかもなあ、という気がしませんか?
小さいながらも存在感がある、可愛い男女の双子だなあと感じます^^

さて、私の愛する大切な北海道が、
この「くにうみ」では登場していないのが
ちょっと寂しいところではありますが…

おそらく古事記がまとめられた時代には、北海道は、
古代日本人からは「日本」として認定されていなかったのかもしれません。

(とはいえ北海道からは、縄文式土器や土偶が出土していますし、
「古事記」と同時期にまとめられた「日本書記」には
「渡島(おしま?わたりしま)」という、
北海道を思わせる土地についての記述があったりしますので
古代日本人が北海道をまったく知らなかったということはないと思いますが)

ただ逆に考えれば、古事記の「くにうみ」に載っている島はその当時から
日本のものとして親しまれ、重視されていたということが分かります。

日本という国の黎明期に立ち会った人達が、
これらの島に関する神話を掘り起こして明文化することで

「これらの島は、神が生んでくれた、神宿る島だ!大切な島なのだ!

と、神々に対して畏敬と感謝の念をさらに深めたことは想像に難くありません。
そして、さらに!

「すべてのものには神が宿っており、
また、それぞれの神には個性が備わっている」という感覚は
縁あってこの日本に生まれてきた私達日本人の魂にとっては
自然と理解できますし、親しみを持てる考え方です。
しかしながらこの考え方は、決してグローバルスタンダードではありません。

特に、近代の欧米では「自然は人間がコントロールすべきもの」とされてきましたし、
モノは単なるモノとして見なし、そこにある心などは認めない考え方が採用されていました
(ただ最近では、日本的な考え方を認め、そこに憧れる傾向も出てきたようです)

モノをモノとしてしか見なければ、それは単なるモノでしかありません。
しかし、もしもモノの中に輝く神性を見出し、それを認めて大切にすれば
大切にされたモノは神性を発揮して輝き始めます。

私達が「これは在る」と認め、受け入れたものだけが
常に私達の目の前に立ち現れます。
この真実は、古事記の最初の物語から、繰り返し描かれています。

私達を育む日本の自然が、神々しいまでに美しく輝いていて
その輝きが多くの外国人を惹きつけてやまない理由は、
古代から日本人が、自然の中に「神」を見て感動し、讃え、
大切にしてきたことの動かぬ証だと私は考えています。

そして、そう考えますと、さまざまなものに対して
自然に神の宿りを感じ、
それを愛でることができる日本人の感性は
なんとも愛すべき、素晴らしい才能(ギフト)だと思うのです。




以下、2月15日21:00 追記

**************

「くらし」を支えるはたらきをする、日本創世記の神々

古事記では、国魂(国土を成す神々)が生まれたあとは
くらしを支える神々が生まれました。おおざっぱに言いますと、
まず生まれたのは、家を成して守る神々。
そして、水や風などの自然を成して営む神々。
それから、喜びや満足以外の新たな感情を司る神々。
最後には、物質的な豊かさに関わる神々です。

ここで改めて、伊邪那岐と伊邪那美がどのように神様を生んでいったのか?
その順番を書き出してみると、こんな感じになります。

国土(住む土地)、住む家、生きていくために必要な水、風、木、山、野…

もしも、自分が紙粘土で「おのごろ島」を作るとしたら、
やはりこれと同じような順番で、世界を形作っていく気がします。
そして、この順番で世界を作り上げていく場合、
その世界の主人公は
間違いなく「人間」、つまり私達だと考えます。

古事記の世界における人間とはつまり、
理想の世界の神様の命(いのち/みこと)を受け継ぐ大切な存在。
いわば神様の分け御霊です。

そんな「大事な我が子」である人間達が、
この「おのごろ島」で住みよく豊かに暮らせるように、
楽しみながら、いろいろなことを考えながら
伊邪那岐と伊邪那美は世界を作っていったのではないでしょうか。
そして、すべての環境をしっかりと整えた上で、
最後に人間を配したのではないでしょうか?^^

このような古事記の記述が、地球創生における実話であるかどうかは
今のところ、誰にも証明はできません。
それでも、ただ一つ確実に言えることがあります。それは、
私達の先祖である古代日本人が、創世記の神を
信頼し、感謝して慕っていたということです。

私達の世界を作った神は、怒れる恐ろしい神でもなければ、
気まぐれで冷たい神でもない。
愛情深くて世話好きで、豊かな智慧を持った親のような神なのだ、と
古代の日本人は信じていた。
だからこそ、このような国生みの神話が残っているのではないでしょうか。

そして、このことを言い換えるならば、私達日本人の中には、
感謝と喜びをもってこの世界を眺めていた
古代の日本人のDNAが受け継がれているのです。

他国の神話の多くが、厳しさや残酷さや不条理さをはらんでいる中で
日本の古事記が何となくほのぼのしていて、優しく感じられるのは
古代の日本人の「神様観」の土台が
信頼と感謝に根ざしているからかもしれません*^^*

ところで、「くにうみ」で生まれた、自然を成し営む神々の中では
水に関する神様がもっとも多く生まれています。
全部で11柱です。
(海の神、川の流れの神、海の流れの神、泡の夫婦神、水面の夫婦神、
水を分配する夫婦神、水の灌漑を管理する夫婦神)

それでは、水以外の自然の神様はどうなのかと言いますと、
風の神様が1柱、木の神様が1柱、
山の神様が1柱、野の神様が1柱、以上!であります(笑)
あれ?なんだかやけにざっくりしてませんか?(笑)
水の部署にはあんなに人員(神員?)が豊富なのに、
風や木や山や野の部署は1柱ずつで大丈夫ですのん?(´・ω・`)
という気がしてまいります。

ただ、これはおそらく古代の日本人が
水のはたらきを何よりも重視していたからなのでしょう。
水が生命を育み、維持していくはたらきに感動し、
水のはたらきの中に特別な「神」を見ていたからこそ
水に関する神がこんなにも多くなったのではないかな、と考えています。


さて、この「くにうみ」の解説は次の更新で終わりにする予定ですが、
次の更新部分こそが個人的にはクライマックス\(^o^)/です。
オカルトな話が大好きな私の色眼鏡(笑)から覗いた古事記の世界を、
オブラートに包むことなく(笑)ヘラヘラとご紹介していきたいと思います。
なお、次の更新は今月中には行う予定です。よろしくお願いしますm( )m





posted by はなうた at 21:00| Comment(0) | 生きるために読む『古事記』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月31日

(二)「あめのぬぼこ と あめのみはしら」に思うこと

皆様、ごきげんよう♪

第2回の「生きるために読む古事記」は
2月中旬にアップする予定でしたが、
もうすっかり書いてしまったので、出し惜しみせずに
アップすることにします。

今回も、読み聞かせ用の動画をつくりました。
原文の読み聞かせも、今回までで十分かなあ、と思ったので
今回でいきなり最終回です。



「古事記の時代の日本人の言葉って
案外、感覚的に分かるものだなあ」と気づいてもらえれば、
それでいいかなと^^
そして、ひらがな表記と現代語訳を並べて読むと、
思っていたよりスムーズに読めるものだな、と思ってもらえれば、
素人なりに苦労(笑)して動画をつくった甲斐があります。
よろしければご覧ください♪

さて、本題の「解説」に入りますが!その前に!

第1回の「生きるために読む古事記」を読んでくださり、
そしてこの第2回も読んでくださる方に、
心から感謝申し上げます。
どうもありがとうございます!

それでは第2回の解説に入ります!

今回の物語は
「あめのぬぼこ と あめのみはしら(以下「あめの」)」です。

「あめの」では、前回の「あめつち」で登場した
伊邪那岐神伊邪那美神が、
天つ神からとあるミッションを授かることになります。
それと同時に、伊邪那岐と伊邪那美の二柱の呼び名が
ひっそりマイナーチェンジするところにも、ぜひ注目です^^

そして、伊邪那岐と伊邪那美の二柱はがっちりとペアを組んで
前人未踏の世界に分け入り、大仕事に挑むわけですが…

そこで二柱の神は「現象世界の誕生」「世界初の青春と恋(!)」
「世界初の問題発生」「世界初の問題解決」などなどを経験します。
なんともスケールが大きく、ドラマチックな展開が待ち受けております。

これらの華々しいできごとに対して、
我が日本国を生んだ尊い二柱の神々がどのように感じ、考え、
対応したのか?が、ズバリ!今回の最大の見どころとなるでしょう(^◇^)ノ

それでは、早速「あめの」の物語を読み説いていきま〜す!!
ちなみに、今回もめちゃくちゃ長い記事になりますので、
休み休み読んでください\(^o^)/


「言葉」や「音」で創造する、という考え方

「あめの」の物語では、冒頭に天つ神が登場しまして、
伊邪那岐と伊邪那美にミッションを託す場面からスタートします。

「天つ神」とは、前回の「あめつちのはじめのとき」で登場した、
理想の世界で活躍する神様達のことでしたね^^

天つ神は、理想の世界全体に自分の名前を鳴り響かせることで
名前に込められた「言霊(言葉の力)」を発動させて、
自分達の属する世界をよりよくするためにはたらきました。

また天つ神は、それぞれが己の役割をしっかりと把握していました。

自分がはたらく際は、横暴な振る舞いや争いごとは一切せず、
嫉妬にかられた末の足の引っ張り合いなどとも無縁。
周りの神様達と「同じ目的をもつ仲間同士」として調和しながら
理想の世界において、素晴らしい連係プレーを成し遂げました。

天つ神のこういうあり方は、とても日本的だなあと感じますね*^^*

さて、そんな天つ神達が「理想の世界」を無事つくり終えまして、
いよいよ「現象の世界」を構築する段階に入りました。
(理想の世界と現象の世界の違いにつきましては
前回の「あめつち」の解説をお読みください)

現象の世界の構築にあたり、天つ神は自分達の思いやイメージを
伊邪那岐と伊邪那美の二柱に向けて、とうとうと語り伝えます。
なぜなら、「思い」こそがすべての創造の根幹となるものであり、
回のミッションでは、思いを託すことが何よりも大事だからです。

かくして、いよいよ伊邪那岐と伊邪那美に
具体的な使命を告げるのでありますが、その使命とは!

「このただよえるくにを つくり おさめ かため なせ」

というものでした^^これを現代語的に分かりやすく訳すなら、

「このあいまいな現象の世界で
ものごとを創造して、
それらに確かな形を与えなさい」

という感じになるかと思います。

そしてこのとき、天つ神は二柱に「あめのぬぼこ」なるものを授けます。
「あめのぬぼこ」の漢字の表記は天沼矛なのですが、
私はこの漢字を眺めていて、なんとなく

=神々の完成させた、完璧な理想の世界

=いまだにドロドロで不確定の、ただよえる現象の世界
=天つ神の理想を、現象の世界にしっかり伝えて響かせる
    強くてまっすぐな意思の象徴

という思いを込めてこの漢字を選んだのかもしれないな、と感じました^^

さて、壮大な使命を託された伊邪那岐命と伊邪那美命でしたが、
まずは天浮橋に仲良く並んで立ちまして*^^*
どろどろであいまいな現象の世界に向けて、天沼矛を挿し下ろします。
ここで「しお こおろこおろ に かきなして ひきあげたまうときに」
という一節が出てまいります。
これは私なりの解釈なのですが、
天沼矛は、どろどろの潮をかき混ぜるための道具などではなく、
不確定の現象の中で、天つ神の理想を書く(描く)ための
ペン、筆記具のような役割を果たしていたのではないでしょうか。

古事記の原文で、天沼矛でかきなす様を「畫鳴」と記してあるのが
以前から何となくずーっと気になっていたのですが、
これは、もしかしたら従来のイメージの「かき混ぜる」ということではなく、
「思いの丈を、音が鳴るぐらい力強く書(描)いていた」
ということなのかもしれません。

そして「こおろこおろ」というのは、矛で潮をかき混ぜるときの
擬態語または擬音語だとずっと思っていましたが、これも、もしかしたら
二柱の神が「こおれ、こおれ♪」と願いを込めて楽しく口ずさんで、
熱くどろどろの潮を冷やし固めているところを描写したのかも、
さっきハッと思いつきました(笑)

まあ、こういう解釈があってもいいんじゃないかなあ、と思い
ちょっと持論を展開してみました^^
面白がって読んでいただけましたら、幸いです。

さてさて、「こおろこおろ」という言葉が
潮を混ぜるときの擬態語または擬音語なのか、
はたまた「こおれ、こおれ♪」のおまじないの文句なのかはさておき、
二柱の神が「こおろこおろとかきなし」たことで、
正体不明な感じで漂っていたあやしい世界(笑)に
初めて「おのごろじま」という確かな「形」がもたらされたわけです。

この「音を鳴り響かせて世界をつくる」というやり方は、
前回の「あめつち」の物語において
神々が自分達の名を高らかに鳴り響かせることで
「言霊」や「音霊」の威力を発動させ、
理想世界を構築していったやり方と相通じるものがあります。


そして、これらの創造の過程の描写からは、古代の日本人が
言葉や音の力を重視していたことが推測できます。
やはり日本という国は、昔も今も
「言霊のさきわう国」「音霊を重んじる国」
なのでしょうね^^

そして「言葉」といえば、着目したいのは「おのごろじま」という言葉です。
この島は神々の思いの結晶として、現象の世界で
初めて確かな形を与えられた、記念すべき島でした。

それにしても、世界で初めて生まれた島の名前が
何でこんなゴロゴロしたお芋みたいな名前なのだろう…?
とずっと不思議に思っていたのですが、
故・谷口雅春氏や伊藤八郎先生の著書を読んでいると
面白い説が紹介されていました。

「おのごろ=おのずからこごる(凝る)/
おのずと転がる(回転する)」という音から読み解くと、
この『おのごろ島』は地球を表しているのではないか」

と。なんともドラマチックで、素晴らしい解釈ではないでしょうか^^

それに「おのごろ島=地球」だとすれば、
伊邪那岐命と伊邪那美命が
地球という現実世界へと降り立って、
そこで協力し合って「国生み」をしていくという流れを
自然に思い描くことができます。
なので私の解釈としても、地球=おのごろじまということで
行きたいと思います♪


ものごとを調和的に生み育てる「三つの役割」

今回の「あめの」の物語で、私が特に重要だと考えているのは
ものごとを生み育てる際の要となる「三つの役割」です。

「あめつち」の物語でも、「あめの」の物語でも、登場人物だけを変えて
まったく同じ役割が再現されているところに着目しました。

振り返れば、「あめつち」の物語では、
最初に「あめのみなかぬしのかみ」が登場しました。
そのあとに、陽のはたらきを司る「たかみむすびのかみ」
陰のはたらきを司る「かみむすびのかみ」が現れました。

この誕生の順番は、次のような世界観を表しているのではないでしょうか。

「ものごとを生み出す上で、一番最初にあるべきものは
「このようなものを生み出したい」という「思い」

その次にあるべきものは、「思い」を共有した上で
結びつき、新たなものを生み出していく、
対極の性質をもった二つの存在

つまり、本来は相反する二つの存在が
「思い」を拠りどころにして
結びつき、
協力し合い、ものごとを生み出すことで、
世界の可能性は押し広げられ、より豊かになっていくということ」

そして、この「あめつち」の物語での誕生の順番が、
「あめの」の物語でも、登場人物だけを変えて
まったく同じように再現されているのです。しかも、2回も!

まず1回目の再現においては、
「あめのみなかぬし」の果たす「思い」の役割に対応するのは、
「あめのぬぼこ」です。
これは、「よりよい世界をつくりなさい」という任命と共に
天つ神から伊邪那岐と伊邪那美に託されたものでした。
矛は、天つ神の「くにづくり」に対する、
強く固い意思の現れとも言えるでしょう。

この「中心となる思い」を受けて、
ものごとを生み出す役割を担うのは、
陽のはたらきを持つ「たかみむすびのかみ」に対応する
男性の神である「いざなぎのみこと」
そして、陰のはたらきをもつ「かみむすびのかみ」に対応する
女性の神である「いざなみのみこと」です。

理想の世界のはじまりも、現象の世界のはじまりも、
「三つの役割」が担っているという点ではみごとに呼応しています。

さらにいえば、伊邪那岐と伊邪那美が結ばれるシーンにおいても、
二柱は単にいきなり結び交わったわけではなく、
まずは「あめのみはしら」を中心にして、
お互いが行き巡るという動きから始まりました。

この「あめのみはしら」は、地球に降り立った伊邪那岐と伊邪那美が
「見立てる」ことで、一番最初に出現させたものです。
ちなみに、「見立てて出現させる」とは、どういうことかと言いますと、
二柱の神が「ここに『あめのみはしら』がある!」と確固たる意思を持ち、
その意思で持って物質を現象の世界に出現させた、ということです。

それはなんだか魔法のようで、不思議な話だと思われるかもしれません。
けれども、たとえば私達の日常生活においても、
自分が気に留めないモノは目にも入らず、
つまり「無いも同然」という感じでスルーしているものです。
しかし、一旦ある「ものごと」を意識するようになれば、
今まで気にも留めていなかったものが初めて視界に入るということがあり
「なぜ自分は今までこれを見落としていたのだろう?」と感じた経験が
誰にでも1回はあると思います。
認識して初めて目に入る、とはそういうことです。

私達が「ある」と思ったものごとは、私達の目の前に立ち現れますし、
私達が気にも留めないものごとは、私達の前には決して表れません。
これは神様の特権ではなく、私達人間にも同じように言えることなのです。

さて、話を「三つの役割」に戻します。

二柱の神が見立てて出現させた「あめのみはしら」は、
漢字で書くと「天之御柱」となりますが、おそらくこの柱は、
天つ神のおわします理想の世界と、
おのごろじまがある「現象の世界」をつなぐ、立派で美しい柱だと思われます。
伊邪那岐と伊邪那美にとっては、まさに「心のよりどころ」となるものでしょう。

この柱を「はじまりの場所」かつ「行動の軸」としながら、
「いざなぎのみこと」という陽と「いざなみのみこと」という陰が調和し、
結びつくことで新たなものを生み出していくという図式は、
上で説明した2つの創造のパターンとまったく一緒です。つまり

「あめのみなかぬし―たかみむすび―かみむすび」
「あめのぬぼこ―いざなぎのみこと―いざなみのみこと」
「あめのみはしら―いざなぎのみこと―いざなみのみこと

という風に呼応しています。ということで、古事記におきましては
「意思・思い―陽性(男性性)―陰性(女性性))」
ものごとを調和的に生み出す上で必要な
三つの役割ということになっているのです。

古事記の「総論」部分となっている、最初の方の話において
登場人物を変えつつ3回も描いたこの「三つの役割」の強調ぶりは、
「何ごとも最初に意思ありき、意思こそが一番大事だ」と古代日本人が
後世の私達に何度も繰り返し、語りかけていることなのだと感じます。

ちなみに、「もしも『中心的な思い』というものが欠如していて
陰陽しかなかったとしたら、
ものごとはどのように生み出されていくのだろう?」
と考えてみたのですが、やはり陰陽だけでは
世界をよりよく、かつより豊かな場所にしていくのは

難しいのではないかと考えています。

陰と陽、火と水などのように、
性質がまったく異なるもの同士は
反発し合いながらも引かれ合うでしょう。
また、その結びつきの過程でももちろん、
さまざまなものが生み出されていくと考えられます。

けれども、陰と陽の間に「中心となるべき適切な何か」
がない状態が続くと、いずれは、
どちらかがどちらかを支配・征服しようとして
争いごとが起こるのではないでしょうか。

たとえば、あるグループの構成員が一丸となって
「同じ目的を持つ仲間同士、足りないところを補い合って
一緒に頑張りましょうね!」と心から思えるなら、
自分の特徴を受け容れ、相手の個性を認めながら
お互いを高め合ってくこともできるでしょう。
けれども、目的という「中心」がまったくなければ、
どんなに豊かで素晴らしい個性の集合体であっても
やがては争いや嫉妬を生んでいくように思います。

古事記が「あめのみなかぬし」「あめのぬぼこ」「あめのみはしら」
という存在を描くことで、一貫して訴え続けてきたのは
「調和的な中心を持つことの大切さ」なのではないでしょうか。

「みんな違って、みんないい」
という考え方は、もちろん素晴らしいものです。
ただ、その「みんな」が、それぞれによりよく成長して発展していくためには、
「みんなで協力し合って、よりよいものを作っていこうね」という
共通した目標というか、心のよりどころが必要になると思います。

そして、私達の国・日本は「天皇」という中心をいただいてきたからこそ
国民という多様な個性の集合が調和し、結びつくことができたのでしょう。

私が生まれた昭和の時代には、昭和天皇がいらっしゃいました。
昭和天皇が崩御されたのちには、今上天皇が即位なされました。

昭和天皇も、今上天皇も、変わることのない大御心をお持ちです。
「よりよい国をつくりたい。そのために、自分の役割を最大限に果たしたい」
そういう思いを揺るぎなくお持ちだからこそ、
みごとな国の中心としてあり続けておられます。
そして、国の中心、ひいては世界の中心に、
中心としてふさわしい思いをもったご存在がいてくださったからこそ、
日本は皇紀で数えても2676年も続いているのだと思います。
日本という国は、調和的にものごとを生み出していくことの素晴らしさを
その歴史をもって証明しているわけです。
その点だけでも、日本は世界に誇るべき国であると私は考えています。


呼び名が変わり、身体を得た伊邪那岐と伊邪那美

さて、お気づきの方もいらっしゃったかもしれませんが、
前回の「あめつち」の物語では、二柱は
「伊邪那岐」「伊邪那美と呼ばれていました。
ところが、この「あめの」の物語からは
「伊邪那岐」「伊邪那美という呼び方に変わっています。

これはおそらく、二柱の神が天つ神から
「現実世界(=ただよえるくに)の修理固成」という具体的な
「命(みこと=使命、ミッション)」を授かったことで、二柱のあり方が
それまでの「神(かみ)」という、全てに溶け込み隠れてはたらく存在から
「命(みこと)」という、現実的な姿を獲得し、表立ってはたらく存在へと
切り替わったからではないでしょうか。

これは、谷口氏の本にも伊藤先生の本にも書いていないことで
個人的な推測なのですが、先ほどまで「神」と呼んでいたものを
わざわざ「命」に変えたということは、決して気まぐれなどではなく
「任命されたことで、肩書きが変わるように立場が切り替わったから」
ではないかと私は想像しています。

また、二柱の神が「おのごろじま」に降り立った際に、
伊邪那岐命と伊邪那美命が、
お互いの体について質問し説明し合う場面があります。
以下は、私の現代文訳でのやり取りですが、まずはご一読ください。

伊邪那岐お前様の体は、どのように 形を成しているか

伊邪那美「「
私の体は、 みごとに形を成しましたが
 一か所だけ、育ち切らなかったようなところがございます」

伊邪那岐
「私の体も、みごとに形を成したのだが
一か所だけ、余分に育ちすぎたようなところがある」

こういう会話をしているということは、つまり、
二柱の神はごく最近、体らしい体を持ったばかりで、
しかも自分の体のことは何となく分かっているものの
相手の体については、まだよく分かっていない段階なのではないか、
と思われるのです。

おそらく、伊邪那岐と伊邪那美の二柱は
「天浮橋」という理想世界のエリアから
「おのごろじま」という現実世界のエリアに入った際に、
私達の肉体に近いような体を得たのではないでしょうか。

私が参考にしている故・谷口雅春氏や伊藤八郎先生のご本によれば

「伊邪那岐や伊邪那美は神様なので、
私達人間のような肉体は持っていない。
また、いわゆる『みとのまぐわい』についても、
人間が行う性交とは異なる行為であったのではないか」

と推察されていますが、
私は、この点では先生達とは異なる意見を持っています。

ここからは、話的にはフライングになりますが
のちに伊邪那美は、火に関わる神様を出産したことで
「みほとや(女性の陰部)」が焼けてしまい、
それがもとで亡くなったということが明確に記されています。

また、その伊邪那美の死体からは、おう吐物や尿、便が流れ出し、
それらの中から驚くことに、有益な神様が生まれ育っていきます。

さらには、もっと後の話になりますが
命からがら黄泉の国から逃げ帰ってきた伊邪那岐は、
疲労してけがれた自分の体を水で洗い清めて、けがれを落とします。
そのけがれからまた有益な神様(有名な天照大神など)が誕生します。
それによって伊邪那岐は、心身共にリフレッシュ&リラックスするのです。

そういった物語の描写があることも踏まえて、改めて考えてみますと、
「陰部やおう吐物、糞尿、水浴びの描写は肯定するけれど
性交の描写だけは否定する」というのは
かえって不自然な気がするのです。

そもそも、神々が「みとのまぐわい」を行うことは
そんなにも恥ずかしく、低俗なことでしょうか?

まあ、これがもし「古事記」の中で

「性の快楽に溺れた神々は、次々と、
みだらな行為の虜になりまして!」

「やがて、別々の神同士でも、くんずほぐれつで
熱く激しく交わるようになってしまい!」

「酒池肉林の狂乱が永遠に続くのでしたフンダララー」


的なことが書かれていたら「とんだドスケベホイホイ物語だな、オイ」
「どこのギリシャ神話だよ」と私も爆笑せざるを得ませんが、
「古事記」の描写を見る限りでは
全然そういうノリでは描いていないのです。

そもそも、初めて「おのごろじま」「やひろどの」
「みとのまぐわい」を行う前に、
伊邪那岐は伊邪那美に、こんな風に提案をしているのですよ。

伊邪那岐「この私の体で 、余分に育ちすぎたようなところを
お前様の体で、育ち切らず 足りないようなところに
さし入れて塞いで、
国土を成す子を生み育てようと 思うのだが、
どうだろう?」

伊邪那美「それはよいことでありましょう^^

と来たもんだ\(^o^)/♪

つまり、この二柱の神は、
強引に相手を組み伏せるわけでもなく、だますわけでもなく!
さらには、どちらかが「自分の方が偉いんだからね!」と威張ったり、
また、どちらかがコンプレックスなどで卑屈になるようなこともなく!
こういう感じなんですから!↓

「僕の体には、何だか余っているところがあるんだよね…(´・ω・`)

その、余っているところを、君の体の足りないところと合わせて
お互い調和して、新しいものを一緒に生み出したいんだけど…

それについて、君はどう思う?(`・ω・´)」

「いいと思いま〜す(*´▽`*)」


ってことですよ!も〜!何でしょうか!この神々は!
可愛すぎますでしょう。ものすごく和みますでしょう。
そして、なんとまあ、洗練されていて、クリエイティヴかつ
スケールの大きな口説き文句なのでしょうか!ばんばん!!

このくだりだけでも、私は日本をものすごく誇りに思います\(^o^)/

しかも、しかもですね!
二柱の神は、ここからいきなり性的な交わりを始めたわけではなく、
まずは天之御柱を中心にして、お互いが行き巡ったのですが
(やることなすこと、初々しい恋人同士そのものですよね^^
私が冒頭で「現象世界初の青春と恋が描かれています」と書いたのは
ここの描写のことですよ)、
二柱の神はお互いに顔を見合わせた瞬間、
伊邪那美の方から先に、こんな風に口走ってしまうのです。

「ああ!なんて美しい若者なのかしら(´▽`*)」

乙女・伊邪那美は、思ったことをそのまんま言っちゃったのでしたw

このときの伊邪那美の口走りは、後に大問題に発展するのですが(笑)
これまでの流れを見ていたらどうにもこうにも
「伊邪那美って、なんだか天真爛漫で、可愛い女性なのだなあ」
さらに胸がキュンとしてしまったのでした。

伊邪那美といいますと、私のこれまでのイメージではどうしても
黄泉の国で全身を雷(火の玉?)だらけにして
全身がすっかり膿でただれ、蛆でおおわれ、
黄泉平坂では夫の伊邪那岐に対して
すんげーおっかない脅し文句(笑)を吐いたりしていたので
文字通り「鬼のような女神」の印象が漠然とあったのですが…

「あめの」の物語を読んでいると、
伊邪那岐の「国生み」の提案に対しておっとりと賛成していたり、
伊邪那岐の顔を見て「ああ、なんて素敵な人」と無邪気にコメントしたり、
なーんだ、すごく可愛い女性じゃないか!とすっかり好きになりました。

そして、こんなに素直で愛らしい妻・伊邪那美のことを
伊邪那岐もきっと愛おしく、大切にしていただろうと思うのです*^^*
また、心から愛していたからこそ、
最初の国生みが思ったようにうまくいかなかったときも、
伊邪那岐は伊邪那美を怒鳴りつけたりいじめたりしないで、
二柱の神同士で向かい合って相談をしたわけです。

そして天つ神のアドバイスを受けて、気持ちも新たに「国生み」を再開し、
そこから数えきれないほどの神々をせっせと生み出しましたし、
伊邪那岐は伊邪那美を失ったあとは悲しくて、会いたくなって
伊邪那美を黄泉の国まで迎えに行ったのです。

本当に、ものすごく愛に溢れていて、平和的で、素敵なカップルですよね。
そんな二柱の夫婦神のありようからは、
お互いを恋い慕うことの甘さと幸福感と、切なさが感じられます^^


伊邪那岐と伊邪那美から見えてくる「神性」

では、「あめの」の最後のテーマに入ります。

伊邪那美が、天之御柱の向こうから現れた伊邪那岐を見た瞬間
あなにやし、え、おとこを(ああ、なんて素敵な若者でしょう)
と言ってしまったことが、「みこひるこ(骨のない、ぐにゃりとした子)
あわしま(あぶくのような曖昧な子)を生む結果へと繋がりました。

このことは、調和のうちにものごとを生み出すメカニズム、つまり
「ものごとが『陽』から発せられ、発せられたものを『陰』が受け取る」
ということにそぐわなかったために起きたことですが、
「みこひるこ」や「あわしま」を生んだことは、決して失敗ではなかった、と
私は考えています。

調和を生み出すために必要な秩序というものが何なのか、
二柱の神はこの体験をもって知ることができたのです。
また、その体験がこうして後世に語り継がれ、
私達が調和的に生きるための知恵となっているのですから、
私は二柱の神の最初の2回の国生みについては、
ありがたいことだったなあと感じています。

そして、伊邪那美が先に「あなにやし〜」と言葉を発した件についても、
私は、これは決して間違いでもなんでもなく、
純粋な「神性の発露」だと捉えています。

そもそも古事記の天つ神というのは、
基本的に純粋で楽しくて、喜びに満ちているものです。

たとえば「あめつち」の物語では、
理想の世界に必要なはたらきがほぼ出そろったところで、
にっこり笑って満足するおもだるのかみが生まれました。
そして、同じく「あめつち」の物語で、陽と陰が結びつくことで
初めて誕生した神様の名前は
うましあしかびひこじのかみでした。
この名前を私なりに解釈しますと、
うまい! 葦が芽吹くときのように勢いよく、
力強く萌え出て姿を現す、男性的なはたらきということでした。

そう、「ありがたい」でも「おそれおおい」でもなく、
うまし!(うまい!おいしい!イエイ!(笑))という、
ノリノリの感嘆の言葉を冠した神様が、
陽と陰の結びつきから、飛び出るように生まれてきたわけです。

そんなハッピーな天つ神の申し子である、女の子の神様、伊邪那美が
ものすごくいい男である伊邪那岐を見た瞬間に
「うわあ、素敵な人!大好き(*´▽`*)」と幸せいっぱいに叫んでしまったのは、
伊邪那美が純粋な天つ神だったからです。
天つ神は、喜びに満ちていて素直な存在なのです。
神様にはそういう側面もあるのだから、仕方がないんです(笑)
ですから伊邪那美の口走りについては、結局は、
神が神たるゆえの神性の発露なんだろうなあ、と私は思うのです。

一方で、自分が先に声を掛けようと思っていたところ
すっかりタイミングを奪われた(笑)伊邪那岐の方は、
一応、あなにやし、え、おとめを(あっ…か、可愛い乙女だなあ)
とは言ってみたものの、なんだかモヤモヤしていて、後に
おみな こと さきだちて ふさわず
(女から先に結びの言葉を発するのは 何かしっくり来なくて、よくないなぁ)
と自分の感じたことを感想として漏らすのです。

その後、天つ神のところに相談に行ったときに
おみな こと さきだちし に よりて ふさわず
(女の方から、結びの言葉を先に 発してしまったことがよくなかった)
と天つ神から占いを通してヒントをいただいたわけですが、
これは先ほどの伊邪那岐の直感が正しかったことを表しています。

天つ神から生まれた伊邪那岐は、身も心も天つ神と繋がっています。
だからこそ天つ神の思いを、直感を通して受け取ることができます。
このこともまた「神性の発露」なのだなあと、私は捉えています。

そして、これは伊邪那岐に限った話ではなく、
私達人間においても同じことが言えると思うのです。

直感を通して、自分の中にふっと響いた真実を、
丁寧に見つめて、大切にして、生きていく。
それが、自分を満たし、安心させ、幸せにすることなのだと思います。


ちなみに、伊邪那岐と伊邪那美が天つ神のところに行ったときに、
相談された天つ神が占いを行うことで、
自分よりさらに上の天つ神の意見を明らかにする、というくだりで
「何だよ!占いかよ!」「相談された天つ神自身が答えないのかよ!」
などなどのツッコミが入りそうですが(笑)

これは、何か迷い悩むことが起きたときには、
より中心の、より上の存在に
答えを求めるという
日本的なスタンスの表れ
なのでしょう。

また「占いで、果たして天つ神の意思が分かるものかな」
とも思う方もいるかもしれませんが、
理想の世界や現実の世界や神様達を
じゃんじゃん生めるくらい、スーパーな天つ神が

伊邪那岐と伊邪那美の真剣な悩みを
知らないはずがありません。

また、その悩みに対して、占いを通して
最適な答えを与えることができないはずがありません。


完璧な天つ神は、すべてまるっとお見通しなのですから(´▽`*)ゞエヘヘ♪


はい!ということで、「あめの」の解説は以上となります。

いかがでしたでしょうか\(^o^)/

私が「古事記ってすごく面白いですよ!」と
たびたび、興奮しながら(笑)皆様に力説してきたことの片鱗でも
実感していただけましたら、私としても大変嬉しいです。

なお、上のような読み解き方につきましては
「こじつけじゃないの」「駄洒落みたい」という意見も
もちろんあるかとは思いますが…

そもそもが、日本の和歌の世界からして
こじつけや駄洒落やダブルorトリプルミーニングの宝庫でありますゆえ、
日本で初めての和歌(素戔嗚尊が読みました)を載せた書物である古事記が
さまざまな解釈を引き出せる豊穣な意味合いの物語であったとしても、
何の不思議もないよなあ、と私は考えております(ΘДΘ)♪


<参考文献>

出版社:光明思想社 
著者:伊藤八郎
『古事記神話入門』

出版社:日本教文社 
著者:谷口雅春
『限りなく日本を愛す』

posted by はなうた at 19:09| Comment(1) | 生きるために読む『古事記』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月12日

(一)「あめつちのはじめのとき」を訳し終えて思ったこと

皆様、ごきげんうるわしゅう。

先日10日に3本の記事をアップした後、
私は何だかものすごーく盛り上がってしまい、
その夜は家で慣れない深酒をしてしまったのですが。
その結果、翌日は重い二日酔いになりまして。
さらには風邪をひいて、寝込んでしまいました。

あほだという自覚は、ありまぁす!!

ふう…

さて…気を取り直しまして、
本日は、古事記を訳している最中に感じていたことを
余談的に書いていきます。

今回「あめつち」の解釈をするにあたっては
伊藤八郎先生や谷口雅春氏の著書を参考にして、
限られた文字数やスペースにうまく収まるように気をつけながら
自分なりに「これだ!」と思える言葉を見つけていきました。

それは、時間は大いにかかれども楽しい行程だったのですが、
最後の最後まで延々と迷っていたことが二つありました。
そのうちの一つが、「おおとのじのかみ」と「おおとべのかみ」の
名前の訳し方でした。

伊藤先生の本では、「『おおとの』とは広々とした世界、
一切を包容する世界のこと」であり
「地(じ)』は男性に対してつける言葉」、そして
『弁(べ)』は女性に対してつける言葉」と書かれていたのですが…

「ではそれを踏まえて、『おおとのじのかみ』と『おおとべのかみ』は
それぞれ、どう訳したら一番しっくり来るだろう?

そもそも、『じ』や『べ』の音は、どんな雰囲気を表しているのだろう?

『おおとの』を大らかな包容力と訳すならば、
『男性的な包容力』と『女性的な包容力』の違いとは
一体何?具体的に言うなら、どういうこと?」

これらの問いについて数日間、卵を温める親鳥のような思い(?)で
考え込んでいたのですが、あるときハッと自分なりの答えを思いつきました。

「『男性的な包容力』とはもしかして、
おじいちゃんみたいな優しさのことかな?

お父さんだと、まだ若くて怒りっぽくてエネルギッシュだから、
受け容れるのが難しいこともたくさんあるだろうけど、
いろいろなことを経験してきて円熟味を増したおじいちゃんなら、
一切をおおらかに受け容れて包み込みそうだよね!」

「あっ!それなら、『女性的な包容力』というのは、
おばあちゃんみたいな優しさのことかもしれない!」

かくして、ようやく自分なりに納得のいく解釈を見つけたわけですが、
そうかといって「祖父性」や「祖母性」という言葉を遣ってしまうと
なんだかとってつけたようで、かえって分かりにくくなる気がしたので
結局「父性」と「母性」という言葉でそれぞれの名前を訳しました。

それでも「大らかに広がり、整え、すべてを受け容れる父性」とは
私の中でざっくり言うならば「いい意味でのおじいちゃんらしさ」であり、
また 「大らかに広がり、整え、すべてを受け容れる母性」とは
同じく「いい意味でのおばあちゃんらしさ」です。

そして私はこの解釈の向こう側に、大変おそれおおいことですが
なんとなく天皇皇后両陛下のお姿を思い浮かべていました。

それから、今回の古事記の現代語訳を検討している最中に
両陛下のお姿を思い浮かべたことは、実はあともう1回ありまして、
それは「おもだるのかみ」と「あやかしこねのかみ」の名前について
考えていたときのことでした。

私は、この神様達のはたらきについて、それぞれ
「必要なすべての働きが現れて、
面(=表情)が満ち足りる男性的なはたらき」と
「ああ、かしこ(=畏れ多い)と感謝し尊ぶ女性的なはたらき」
と訳したのですが、この組み合わせから浮かんでくるイメージもやはり
両陛下のまろやかで神々しい存在感でした。

私達の両陛下が、神話の世界から連綿と連なっている
日本の神様の魂をしっかり受け継いでいらっしゃるから、
「あめつち」の神様と両陛下のイメージが
こんなにも重なるんだろうなあ…と思い、1人で納得していました。

ところで、古事記と陛下といえば…^^

皇后陛下は、御幼少のみぎりに
東京から長野県に疎開なさっていらっしゃったのですが、
その当時、お父様から贈られた子ども向けのご本を
たいそうご愛読なさっていらっしゃり、
それらの中には日本神話のご本もあったのだそうです。

当時の読書体験について、皇后陛下がご回想なさっている
とても素敵な文章がありますので、少し長くなりますが引用して
この記事を終わりにしたいと思います。

***************************

皇后陛下 第26回IBBYニューデリー大会基調講演
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html

…教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に,
たまに父が東京から持ってきてくれる本は,
どんなに嬉しかったか。
冊数が少ないので,惜しみ惜しみ読みました。


そのような中の1冊に,今,題を覚えていないのですが,
子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。
日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は,
どちらも8世紀に記された2冊の本,
古事記と日本書紀に記されていますから,
恐らくはそうした本から,子供向けに再話されたものだったのでしょう。

父がどのような気持ちからその本を選んだのか,
寡黙な父から,その時も,その後もきいたことはありません。
しかしこれは,今考えると,本当によい贈り物であったと思います。
なぜなら,それから間もなく戦争が終わり,
米軍の占領下に置かれた日本では,
教育の方針が大巾に変わり,その後は歴史教育の中から,
神話や伝説は全く削除されてしまったからです。

私は,自分が子供であったためか,
民族の子供時代のようなこの太古の物語を,大変面白く読みました。

今思うのですが,一国の神話や伝説は,
正確な史実ではないかもしれませんが,
不思議とその民族を象徴します。
これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,
どのような自然観や生死観を持っていたか,
何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,
うっすらとですが感じられます。

父がくれた神話伝説の本は,私に,個々の家族以外にも,
民族の共通の祖先があることを
教えたという意味で,
私に一つの根っこのようなものを
与えてくれました。
本というものは,時に子供に安定の根を与え,
時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。

もっとも,この時の根っこは,
かすかに自分の帰属を知ったという程のもので,それ以後,
これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の,
ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。

***************************

皇后陛下なら、「あめつち」の原文をどのように訳されるのでしょうね…

もし皇后陛下に「あめつち」を読み聞かせしていただけて、
その意味を教えていただけたら、どんなにか幸せだろうなあ…
なんてな妄想にしばし浸ったのでした*^^*



posted by はなうた at 21:33| Comment(0) | 生きるために読む『古事記』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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